青森空襲(昭和20年7月28日)
更新情報
- 2025年11月10日本文見出し「甚大な被害をもたらした背景」の内容を更新しました。
昭和20年7月28日、青森市は空襲を受け、街は一夜にして一面焼け野原、廃墟と化し、多くの命が失われました。青森市が忘れてはならない歴史、「青森空襲」とはどのようなものだったのでしょうか。
焼き尽くされた青森
7月28日夜、アメリカ空軍のB29爆撃機の編隊が秋田県の男鹿半島を北上、西津軽郡岩崎村(現深浦町)大間越付近から県内に侵入し、東北方向に進んで青森市に向かいました。
警戒警報は午後9時15分、そして空襲警報は午後10時10分に発令されました。アメリカ軍の報告書によれば、午後10時37分から1時間11分にわたり焼夷弾による空爆が行われました。青森市は焦土と化し、多くの尊い命が犠牲となりました。これがいわゆる「青森空襲」です。
空襲警報は翌29日の午前0時22分に解除となり、午後1時30分までに判明した被害状況は、罹災家屋約16,000戸、罹災者約80,000人、死者126人、負傷者は229人でした。被害状況は時間が経つにつれ増大し、8月3日青森県知事警察部長報告によれば、青森市の人的被害は死者728人、重軽傷者280人、さらに11月に県警察部が第一復員省に行った報告では、死者1,018人、重軽傷者は255人となっています。
なお、人的被害は浦町・長島・古川などの市街地中心部に多く、しかも死亡者全体の約84%が防空壕で亡くなりました。
※写真は「青森空襲を記録する会」提供
甚大な被害をもたらした背景
アメリカ軍による爆撃は、鉄道や水力発電所などの戦略的に重要な場所よりも、非戦闘員の殺傷を目的とした都市無差別爆撃を優先していたと評価されています。7月28日の青森空襲においても、この評価を裏付けるように青森操車場はほぼ無傷で残されたといいます。
一方、爆撃機はまず青森市の市街地を囲むように爆撃して人々の退路を遮断し、その後囲んだ内側を焼夷弾で徹底的に爆撃しました。使用されたのは、発火性薬剤を装填した焼夷弾38本を束ねた収束焼夷弾であり、空中で分離して一斉に降下したため消火が極めて困難でした。街中は火の海となり、身体に直撃して即死となることもありました。こうして、人的被害は甚大なものとなったのです。そのため、7月28日の青森空襲は、戦略的には価値のない、日本人の戦意を喪失させることが目的の無差別な空爆だったといわれているのです。
青森市が昭和47年(1972年)に発行した『青森空襲の記録』によると、7月20日頃から、米空軍からしきりにビラがまかれ、特に27日午後10時10分、B29爆撃機2機が青森市の高空から多数のビラを投下しました。ビラの裏面には、航空機から盛んに爆弾が投下されている写真の下に、青森、西宮、大垣、一ノ宮、久留米、宇和島、長岡、函館、郡山、津、宇治山田の11都市の名が挙げられていましたが、こうしたビラは、読むことはもちろん拾うことも禁止されていたとされています。
また、当時の防空法では、防空上の必要がある場合、住民の移動を禁止または制限することができ、建物に火災の危険が生じた際には、居住者などに応急防火の義務が課されていました。当時の県知事は防空体制の維持を呼びかけ、市も届出なく住家を空けた者に対し、復帰のうえ、物資の配給や家族疎開に関する正式な手続を行うよう求めていました。同書によると、「疎開先から呼び返されたその二十八日、青森市の大空襲が行われたのである。」と記述されています。
このように、焼夷弾の特性や爆撃方法といった物的な要因に加え、防空法による避難制約などの当時の社会的な要因が様々重なり合い、青森市の中心部は一夜にして焼き尽くされ、多くの尊い命が失われました。
※写真は「青森空襲を記録する会」提供
体験者の証言
青森空襲を体験したかたの証言を紹介します。
「防空壕で叔母と姪が犠牲に」富岡せつさん
「戦争は悲惨だ 歴史から学ぼう」今博文さん
PDFファイルの閲覧には「Adobe Acrobat Reader(R)」をアドビシステムズ社サイト(新しいウィンドウ)からダウンロード(無料)してください。
このページに関するお問い合わせ
青森市総務部総務課
〒030-8555 青森市中央一丁目22-5 本庁舎2階
電話:017-734-5042 ファックス:017-734-6865
お問合せは専用フォームをご利用ください。
