青森空襲(昭和20年7月28日)

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ページ番号1006008  更新日 2024年12月23日

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昭和20年7月28日、青森市は空襲を受け、街は一夜にして一面焼け野原、廃墟と化し、多くの命が失われました。青森市が忘れてはならない歴史、「青森空襲」とはどのようなものだったのでしょうか。

焼き尽くされた青森

7月28日夜、アメリカ空軍のB29爆撃機の編隊が秋田県の男鹿半島を北上、西津軽郡岩崎村(現深浦町)大間越付近から県内に侵入し、東北方向に進んで青森市に向かいました。
警戒警報は午後9時15分、そして空襲警報は午後10時10分に発令されました。アメリカ軍の報告書によれば、午後10時37分から1時間11分にわたり焼夷弾による空爆が行われました。青森市は焦土と化し、多くの尊い命が犠牲となりました。これがいわゆる「青森空襲」です。
空襲警報は翌29日の午前0時22分に解除となり、午後1時30分までに判明した被害状況は、罹災家屋約16,000戸、罹災者約80,000人、死者126人、負傷者は229人でした。被害状況は時間が経つにつれ増大し、8月3日青森県知事警察部長報告によれば、青森市の人的被害は死者728人、重軽傷者280人、さらに11月に県警察部が第一復員省に行った報告では、死者1,018人、重軽傷者は255人となっています。
なお、人的被害は浦町・長島・古川などの市街地中心部に多く、しかも死亡者全体の約84%が防空壕で亡くなりました。
※写真は「青森空襲を記録する会」提供

写真:当時の蓮華寺
当時の蓮華寺
写真:当時の旧公会堂(現・しあわせプラザ)
当時の旧公会堂(現・しあわせプラザ)

なぜ空襲を受けたのか

アメリカ軍による爆撃は、鉄道や水力発電所などの戦略的に重要な場所よりも、非戦闘員の殺傷を目的とした都市無差別爆撃を優先していたと評価されています。7月28日の青森空襲においても、この評価を裏付けるように青森操車場はほぼ無傷で残されたといいます。
一方、爆撃機はまず青森市の市街地を囲むように爆撃して人々の退路を遮断し、その後囲んだ内側を焼夷弾で徹底的に爆撃しました。街中は火の海となり、また身体に直撃して即死となることもありました。こうして、人的被害は甚大なものとなったのです。そのため、7月28日の青森空襲は、戦略的には価値のない、日本人の戦意を喪失させることが目的の無差別な空爆だったといわれているのです。
※写真は「青森空襲を記録する会」提供

写真:旧公会堂から見た浜町・大町方面
旧公会堂から見た浜町・大町方面
写真:古川跨線橋上空から臨む
古川跨線橋上空から臨む

体験者の証言

青森空襲を体験したかたの証言を紹介します。

「防空壕で叔母と姪が犠牲に」富岡せつさん
「戦争は悲惨だ 歴史から学ぼう」今博文さん

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