なみおか今・昔5

町史研究余録(5)

〜菅江真澄と伊能忠敬〜

 前回に続き菅江(すがえ)真澄(ますみ)についてふれましょう。寛政8年(1796)5月6日、彼は王余魚沢(かれいざわ)から浪岡に入り、比羅野(ひらの)某の家に泊りました。このころ真澄は浪岡地域に興味を持ち各地を巡っています。
 加茂の競馬、浪岡御所、北中野の農家の屋根の獅子頭(ごんげんさま)、西光庵、金光上人の塚、本郷の寺跡、源常林の大銀杏、美人川、浪岡鎗。 『すみかのやま』は、この時の見聞のかずかずを記しています。浪岡に関する彼の著作には「浪岡物語」がありますが、現在行方がわかりません。浪岡町史編纂を機に発見されればと願っています。
真澄が描いた五本松
真澄が描いた五本松
(所蔵 秋田県立図書館)
 真澄が津軽を去った翌年伊能(いのう)忠敬(ただたか)が、浪岡を通過しました。享和2年(1802)地図作成のため、津軽半島へ向かっていたのです。
 8月10日朝、弘前を出て増館から現在の浪岡町に入りました。彼の日記には白銀(しろがね村が道の左、川をへだててあることのほか、「村役人送迎案内なし」と不満の意を記しています。忠敬には“幕府の命令によって調査しているのだ”というプライドがあったのです。
 松枝村のつぎは女鹿沢(めがさわ)村です。一行はここで休憩しました。そしてこの村が、つぎの浪岡村と月の半分ずつ、公用物品の継ぎ送りを分担していたことを記しています。宿次しゅくつぎといって、沿道の村々に課せられた負担です。藤崎の宿駅から運ばれたものを、積替えて新城の駅場に送るのです。
 浪岡のつぎは杉沢村、高屋敷村、徳才子(とくさいし)村、大釈迦村を進み、柳久保から大釈迦峠にかかりました。鶴ヶ坂村までの間にあった山里村の名はみえません。天明の凶作で村は四散したのでしょうか。このあと−行は油川に泊り、津軽半鳥の海岸線の測量にはいりました。

【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】

『広報なみおか』平成7年(1995)11月1日号に掲載


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