なみおか今・昔4

町史研究余録(4)

〜古川古松軒と菅江真澄〜

 古川(ふるかわ)古松軒(こしょうけん)は幕府の巡見使に随行して、東北・北海道を旅しました。そのときの見聞は『東遊雑記』として残されています。巡見使は将軍が代わるごとに、全国に派遣され、地方の状況を視察しました。
 古川古松軒が津軽に入ったのは、天明8年(1788)7月14日のことです。最初に泊まった碇ヶ関について「ようよう50軒ばかりの町である。しかし羽州秋田辺の民家よりもよい」と『東遊雑記』(東洋文庫版、以下同じ)に記しています。16日には浪岡を通過しました。
 『東遊雑記』は「増館付近の村一帯は広々として、西に岩木山を見、南東の間に南部の山々が見える。地方も上方の風土に見えながら百姓のてい悪しく、家ごと女馬を3疋5疋も飼っている。うまやというのは掘立柱をたて、垣を結い廻している。」と集落のようすを描写しています。
各地に残る天明の飢饉供養塔
各地に残る天明の飢饉供養塔
 浪岡では昼食をとっています。休息した平井家について、古松軒は次のように記しています。「亭主の勘太郎は95歳だが壮年のようである。嫡子の市兵衛は69歳、孫は市三郎といい43歳、ひこ孫文治郎が21歳、つる孫勘吉は今春の誕生。珍しいのでそろって、御巡見使に御目見えした。」
 一方、古松軒は天明の大飢饉にふれ、「弘前よりこの辺(平舘)まで、田畑荒れし所広大」と述べ、凶作の痛手が大きかった津軽の農村を記録しています。
 凶作といえば、本草学者で民俗を研究した菅江(すがえ)真澄(ますみ)も、同じ頃浪岡にきています。
 彼は津軽坂(鶴ケ坂)の真萩がみごとなことを記すとともに、死んだ馬にむらがる包丁を持った女たちの話など、飢饉のすさまじさを『外が浜風』に記しています。

【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】

『広報なみおか』平成7年(1995)10月1日号に掲載


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