享保14年(1729)3月30日付の「弘前藩庁日記」には、次のような内容の記事があります。
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「弘前藩庁日記」享保14年3月30日条 |
一 浪岡組代官が申し立てた。 鰐口壱つただし直径八寸程 玉伏湊如来堂 正和五年丙辰八月十五日 願主 弥六藤原景光
このような文字があった。
この鰐口は中野村諸辺寺川之内萑倉という所から、今月24日に同村の百姓弥五左衛門という者の子どもが拾ってきた旨申し出た。
このことについて、中野村の百姓共を詮議し、古い時代のことを尋ねたところ、いずれも昔のことは分からないと答えたので、(このことを)宇左衛門に連絡した。
文中の浪岡組は浪岡を中心とした行政区域です。中野村はその中の1つで、明冶になってから黒石市域の紅葉の名所中野村と区別するため、北中野村になりました。
諸辺寺川は細野・相沢地域をうるほし、源常の大銀杏の横を流れ、浪岡城の下で浪岡川と合流する川−現在の地図には
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深浦円覚寺の鰐口 |
【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】
『広報なみおか』平成13年(2001)3月1日号に掲載
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