江戸時代、大名には参勤交代の義務がありました。妻子を江戸に住まわせ、1年は藩の政治を、翌年1年間は江戸に行き将軍のもとで定められた仕事をするのです。関東地方の大名は半年ごと、対馬の宗氏、松前氏は特別な扱いでした。大名の負担は大きく、幕府に反抗することができなかったのです。
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松前城 |
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「弘前藩庁日記」(安政6年3月22日条) |
一 郡奉行が申し出た。このたび松前伊 豆守様が帰国される。碇ヶ関口より (津軽領内)を通行される。油川に 宿泊されるところだが、宿を勤める 格式のある家がない。青森は前々か ら御本陣となる家があり泊まってお られた。よって浪岡から(鶴ヶ坂を 通らずに)大豆坂を通り青森に止宿 されることになった。(以下略)
このほか弘前藩庁には、今回に限り「小坂越え出羽通り」を通行するのでよろしく、という連絡が来ています。
弘前では前例がないので大騒ぎになりました。宿泊先のあっせんだけでなく、馬70頭の手配、橋の修理に道路の掃除、村々には火の用心から、玄関の下足が見苦しくないようにと指示しています。増館から女鹿沢、五本松、王余魚沢など、沿道の村に細かな命令が飛びました。浪岡組の役人は高陣場の休息所をどうするか、藩庁に指示を求めています。役人も大変です。
松前藩主は予告通り4月1日弘前に泊り、翌日は青森へ、浪岡は昼食です。193人分の給食は村人にとって大変でした。4月4日に松前藩主はようやく三厩に到着しました。
それから半月、4月18日の「弘前藩庁日記」は、順風があり渡海されたと記しています。「ヤマセ」でないと渡れないのです。江戸出発は3月11日、長い長い旅、お殿様も大変でした。
【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】
『広報なみおか』平成13年(2001)2月1日号に掲載
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