天明5年(1785)正月、浪岡の御蔵に盗賊が入りました。正月27日の「弘前藩庁日記」は次のように記しています。
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飢饉と流民 |
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「弘前藩庁日記」(天明5年正月27日条) |
一 浪岡御蔵奉行伊東勇助が勘定奉行 まで申し出た。浪岡の御蔵が、去 る二十四日の夜破られ、藩の米六 俵が盗まれた。村の中を厳しく調 べたところ、畑中村(樽沢の地名) の“辰之助”、杉沢村の“彦”、 孫内村(現青森市)の伝九郎ら三 人が盗み出し、浪岡村の“吉松” が五本松村まで運んだことを、吉 松が白状した。御米は全部取り戻 し、吉松を庄屋に預けた。このこ とを勘定奉行は主水 (家老)に報 告し、吉松を牢屋に入れた。御蔵 を破った三人の行方は厳しく調べ ている。(以下略)
ところで、吉松が運んだ米は五本松村の長右衛門・仁八・源四郎が気にもせず買い受けていました。3人は盗品を買った罪で15日間の「戸〆」を申し付けられています。五本松の3人は、なぜ簡単に米を買ってしまったのでしょうか。
御蔵破りの3人はなかなかつかまらず、やがて人相書が回されました。杉沢の“彦”は、
一 年二十一歳、年より若くみえる。 一 せい(身長)小さい。 一 中肉で顔は平。 一 眼は細い。 一 鼻はひらいている。 一 眉毛は薄い方。 一 月代(さかやき)は薄い方。 一 衣類は布差しこぎん三枚位。 一 白い布の帯をしている。 一 木綿の股引(ももひき)をはいている。 一 木絹の藍染の風呂敷をかぶっている。
という内容です。ほかの2人も同世代です。しかし、3人を逮捕したという記事はありません。藩の御蔵を破っても3人でたった6俵、馬の背中で運ぶのですから、多くは持ち出せなかったのでしょう。換金していますから、3人はやっぱり悪い友達だと考えられます。前年は大凶作、五本松の百姓が買った理由も納得できるのです。
【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】
『広報なみおか』平成12年(2000)10月1日号に掲載
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