町史研究余録(10)
〜新撰陸奥国誌(2)〜
前号から『新撰陸奥国誌』に記されている明治初年の村々の姿を述べてきました。
今回は東山根の集落を中心にみていきたいと思います。
大豆坂街道ぞいの五本松村は支村を含めて家数60軒、「土地下之下畑多く田少し」と記すほか、村びとが人足として働いていると書いています。
五本松村には羽黒平・松山・板橋の3支村がありました。そのうちの板橋は家数3軒、現在は移転してしまい、村の跡に残された庚申塔が昔をしのばせています。
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板橋付近の庚申塔・天保3年 |
王余魚沢村は家数18軒「田畑少く土地下之下 常産に薪炭を専とし 或は山蔬を采て生活を補ふ」と記し、炭焼や山菜取りで生計をたてていました。また旧跡の項には「首塚」の由来が記され、古戦場の「高陣場」にもふれています。
現在の北中野は中野村と呼ばれていました。家数は151軒、村の「三方に田圃」があり農業が生活の中心でした。村内には「源常林」や「金光墓」のほか3尺(1m)程の五輪塔があると述べています。
五輪塔は吉内村にもあり、金売吉次信高の弟「吉内」の墓と紹介しています。しかし、両村の項に北畠氏の墓の記事はありません。
本郷村の家数は125軒、湯ノ沢の温泉は入湯する人が多く、疝気と小瘡に効くと記しています。
相沢・細野両村に目を移しましょう。相沢は11軒「田畑共に少く薪炭秣山蔬等を恒の産とす」と記しています。細野村は4つの支村を含め41軒、相沢と同じく炭を焼き
秣(を刈り、山菜を取る生活をしていました。
明治維新後10年、土地や税制が変わり、集落の間には争いが生じてきました。
【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】
『広報なみおか』平成8年(1996)4月1日号に掲載