![]() 笹森は、幕末の弘化2年(1845年)、弘前藩士・笹森重吉の子として生まれた。重吉は これから間もなく、笹森はかねてからの念願でもあった牧場経営に着手する。彼がこのような構想を持つに至った背景として、若き日に師事した山田登の影響がある。山田は弘前藩士として富国強兵策を唱え、新田開発にも従事した人物である。
当時、県内各地には同様の大牧場が開設されているが、これらの多くは間もなく経営難に陥り、閉鎖の憂き目を見ている。笹森の常磐野牧場も同様であった。 明治23年に農牧社を辞した笹森は、それからしばらくの間、西日本各地をはじめ、千島列島や奄美大島方面に旅行し、これら各地の産業や風俗などを詳細に調査している。これらの旅行視察記は、それぞれ「貧乏旅行之記」、「千嶋探検」、「南嶋探検」としてまとめられた。特に「南嶋探検」の学問的価値は今日に至るまで高く評価されている。また、これが機縁となり、明治27年8月には奄美大島島司に任命されている(同31年辞任)。笹森の探検視察記には、このほかに「 笹森は各地の探検、視察を終え、明治34年5月に帰郷するが、その時には既に57歳となっていた。笹森は「引退」を願って帰郷したものと思われるが、翌明治35年、青森市の第2代市長に選出されたことで、その想いは打ち消されることとなった。 (敬称略) 【近・現代部会長 末永洋一】 ※『広報あおもり』2000年5月1日号に掲載 |
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