![]() 初代市長の工藤にとって最大の課題は、水道敷設問題であった。当時の青森の飲料水は悪水で有名で、早くから水道施設の要望があったが、明治19年(1886年)のコレラ、明治24年の腸チフスの大流行により、世論も一刻も早い水道施設を求めていた。明治31年には「青森水道期成同盟会」が結成されたほか、市制施行によりさらに運動に弾みがつくこととなった。 しかし、残念なことに、日露戦争の勃発などで着工はのびのびとなり、ようやく工事が開始されたのは明治40年4月であった。 また、弘前市、八戸町(現在の八戸市)に遅れはしたものの、明治34年、青森第三中学校を開設させたことは、明治44年の県立女子師範学校や大正2年の市立工業徒弟学校の設立とともに、教育者としての一面を持つ工藤の
工藤が市長に再任されて間もない明治43年5月3日、青森市は死者26人、焼失家屋5千246戸におよぶ大火災に見舞われた。工藤は東京市(現在の東京都)に 第5代の任期満了を迎えた工藤は、次期市長選出を巡るごたごたを経験するが、引き続き第6代市長として再任された。しかし、このときの対立がその後も尾を引き、わずか9か月足らずで辞職することとなる。 辞職後間もなく、大正6年(1917年)4月の衆議院議員選挙に立候補し見事に当選を果たし、しばらくは国政において活躍する。 工藤が4度目に市長に選出されるのは、大正10年2月のことである。工藤の後を継いで第7代市長となったのは阿部政太郎だったが、市政は派閥対立などが続き、大正8年10月に阿部は辞任。市会には解散命令が出される その後、工藤は、病気のため大正13年11月辞職し、家庭で静養することとなるが、翌14年7月20日逝去、享年67歳であった。 写真は工藤の遺徳を なお、第26〜29代青森市長であった工藤正は工藤卓爾の孫にあたる。 【近・現代部会長 末永洋一】 ※『広報あおもり』2000年4月15日号に掲載 |
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