![]() 市長としての笹森がまず着手したことは、県・市税の確実な徴収と財政の確立であった。税収は笹森の在任中に急速に改善され、明治34年度の滞納額が県・市税で2万4千円余であったものが、明治36年(1903年)11月にはわずか660円ほどになったとされる。 なお、笹森の施策を支えて活躍した人物として、後年青森市助役となった財務主任斎藤弥太郎の存在を忘れてはならないだろう。斎藤は、また、笹森が市長時代に計画した水道事業の完成にも尽力している。 笹森の第二の業績は私立商業補習学校(現在の県立青森商業高等学校)の開設であろう。笹森は、かつて中津軽郡長時代に、旧弘前藩士が依然として生計の方向を立てないままでいることを批判し、授産事業の必要を説いた。青森市長として、青森市の将来を考えるとき、商業都市として発展することが最も望ましい方向であり、これを支える人材の育成が肝要であると考え、その機関の創設を求めたのである。 しかし、当時の市の財政には余裕がなく、また、市の経済界の有力者の中にもこれに賛成する人は少なく、開設は容易ではなかった。しかし、笹森は決してあきらめることなく、県・学校関係・経済界などに訴え、村本喜四郎、樋口喜輔、大坂金助らの賛同を得ることに成功し、明治35年10月、私立商業補習学校(夜学)の開設にこぎつけた。そして、自らが初代校長として就任し、ときには教鞭を執ることもあった。 笹森は「不言実行」の人で、いたずらに多言することがなく、市会においても寡黙であった。そのため、一部の市会議員から市会を侮辱するものとして攻撃されることもあったが、これは笹森の人柄を知らないことによるものであったと言ってよかろう。 混乱していた市財政を立て直した笹森は、わずか1年8か月で市長を辞し、その後第五十九銀行監査役などに就いたが、大正4年(1915年)9月29日、故郷の弘前にて71歳で逝去した。 (敬称略) 【近・現代部会長 末永洋一】 ※『広報あおもり』2000年5月15日号に掲載 |
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