なみおか今・昔109

町史かわら版(16)

−町民からのお便り− 浪岡町史第2巻を読んで
〜浪岡城と北畠氏特集に寄せて〜

 青森県史の調査研究員である山内弘喜さん(茶屋町在住)から町史第2巻を読んでの感想が届いていますのでご紹介します。

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浪岡町史
 浪岡城と北畠氏は浪岡町民にとって心の拠り所とでも言うべき存在である。
 しかしどれくらい知っているかと言うと、知らないのに等しい。第2巻の目次で目についたのが、「謎の名族」である。「建武の中興」で後醍醐天皇を助け、北畠親房とその子の顕家は南朝の雄として歴史に名を刻む。しかしながら北朝の要であった足利尊氏との戦に敗れ、顕家は21才の若さで戦死した。
 これから北畠氏の流浪の旅が始まり、最後の落ち着き先が「行岳なみおか」という土地であった。それでは浪岡と北畠氏の関係の中で「謎」とは何であろうか。
 貴族出身の北畠氏の築いた浪岡城は「御所ごしょ」と尊称され、外ヶ浜から津軽山辺郡まで支配しながら、天正年間(1573〜92)に津軽為信によって滅ぼされてしまう。
北中野五倫地内にある北畠累代の墓
北中野五倫地内にある北畠累代の墓
 それ以来、浪岡北畠氏の末裔は、敗者の歴史をたどることになり、最後の城主の名前さえ、系図によって顕村、顕継、具愛、具家、具定と実名が異なっている。これが大きな「謎」であった。第1章と第2章を執筆した宮城教育大学教授・遠藤巖氏の分析はするどい。
 第3章における史跡としての浪岡城と関連する城館の記述を受けて、発掘調査の内容に進む。昭和52年(1977)から平成14年(2002)まで継続した発掘調査により、多量の遺物や遺構が出てきたという。
 その結果が第4章に書かれており、豊富な写真や図は見応えがあった。さらに第5章では、発掘の成果を分析し、「北日本」の視点からの解説は、実にわかりやすい。また、第6章は昭和15年の国史跡指定を中心とした前田喜一郎氏の活躍や、文部省とのやりとりは当時関わった人々の情熱がそのまま伝わってくるようだ。
 それにしても史跡の保護や、発掘調査に汗を流した多くの人の労苦と、その遺物や遺構の分析には脱帽している。執筆者の皆さんに、本当にご苦労様と言いたい。私にとっては、郷土である浪岡を見直す座右の書となっている。

『広報なみおか』平成16年(2004)7月1日号に掲載


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