なみおか今・昔16

町史研究余録(16)

〜峠の村“大杉”〜

 町村制施行の際、赤川以北の集落は浪岡村を中心とした戸長役場のグループから離れて、大杉村を形成しました。役場は明治27年(1894)に徳才子から高屋敷に移転しています。羽州街道が南北に貫くほか、七段坂を越えて西北地方に通じる道が分岐するこの村は、かなりにぎわいました。特に峠下の柳久保(北大釈迦)地域は荷馬車の群で活気を帯びていたのです。青森方面への農産物、津軽平野内陸部への海産物や日用品など、多くの荷物が通過してゆきました。また、定期の乗合馬車も開通しています。
 新しい村が成立したころ、大釈迦トンネルの輸送力は限界に達していました。開通当初このトンネルは有料でしたが、町村制施行のころには元を取り、無料になりました。そして鉄道敷設の事業が進行していたのです。
集落に残る旧奥羽線路盤
集落に残る旧奥羽線路盤
 奥羽線が開通し、大釈迦駅が営業を始めたのは、明治27年12月1日のことです。このころから大釈迦駅前の集落が発達したといわれます。駅には1日200台といわれる荷馬車が集まり、それを見当にした茶店ができました。第五十九銀行(現青森銀行)は大釈迦支店を開設、逓送のため郵便局も設けられ、鉄道に勤める人も増えてゆきました。大釈迦から南には徳才子・長沼・高屋敷・杉沢などの集落が続きます。
 明治10年ころの戸数を『新撰陸奥国誌』で計算すると226戸、その後明治24年には291戸、明治42年(1909)には367戸と急増しています。なお、明治42年の現住人口は男が1,406人・女が1,330人ありました。明治40年代の小学校は大栄・杉沢両校で、尋常科・高等科が設置されていました。両校の出席率は93%を超えており、浪岡地域のトップでした。青年団活動も盛んで、補習教育や風俗の矯正、勤検貯蓄などを旗印に頑張っていました。

【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】

『広報なみおか』平成8年(1996)10月1日号に掲載


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