なみおか今・昔17

町史研究余録(17)

〜五郷村の巻〜

 五郷村は本郷・吉内・細野・相沢・北中野の5村が合併して発足しました。役場は本郷に置かれていました。五郷村発足後、間もない明治24年(1891)の戸数は395戸、人口は2,534人でした。日清・日露両戦役後の明治42年12月末の現住人口は男子1,812人、女子1,770人、合計3,582人になりました。16年間で1,000人ほど増えたのです。村の主な産業は農業です。それに林業もあり、りんごの栽培も進行していました。
北中野桃里の石材(明治33年「東奥日報」広告)
北中野桃里の石材(明治33年「東奥日報」広告)
 農家の数は明治42年に専業が310戸、兼業が34戸、計344戸でした。また、自作農は75戸、自小作が146戸、小作の数は123戸となっています。稲作に関連して藁工品の生産量が多く、縄・筵などで収益をあげていたようです。その生産額は旧五か町村では最高になっています。生産量の多さは税収とも関連し、他の町村にくらべると、高額所得者が多かったようです。
 明治中期の小学校は本郷と細野に尋常科があり、北中野の児童は浪岡に委託していました。しかし、明治42年5月に北中野に小学校を開設し、教育の充実にカを入れました。なお、高等科の設置は遅れていたようです。尋常科への不就学児童の数は、ほかの町村よりも多かったようです。人口の多いこともあるでしょうが、大杉村が1人、女鹿沢村が8人なのに対し、五郷村は83人の不就学児童をかかえていました。所得に比べ、この数字をどのように考えたらよいのでしょうか。ともあれ70年後の現在、教育熱心な地域に変わったのは住民の努力のたまものと思います。

【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】

『広報なみおか』平成8年(1996)11月1日号に掲載


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