なみおか町史コラム(19)
〜坂上田村麻呂について〜
青森ねぶたから田村麿賞がなくなって久しい。ねぶたの最高賞として位置づけられていた坂上田村麻呂は地元の側からみるといわゆる征服者であって逆賊ではないか、というのが廃止の理由とされている。
9月16日に、浪岡八幡宮を調査する機会に恵まれ、御神宝である「伝坂上田村麿呂」の銅像を拝見することができた。八幡宮は縁起の中で延暦12年(793)、田村麻呂によって創建されたと伝え、誉田別命を御祭神として祀っている。像は高さ36p、台座の幅12.6p、肩幅が8.5pの、重厚感あふれる銅像である。足元の裏側には、
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浪岡八幡宮御神宝 坂上田村磨呂銅像 |
「弘仁二(年)九月六(日)調首内人」という刻字がみられる。
像を納めていた箱書きでは、昭和10年(1935)8月に八幡宮が郷社から県社に昇格した記念に奉納したとなっており、昭和10年以降に御神宝となったことが分かる。さらに箱の内部には
中道等(氏から聞き書きした像の説明書き、現平成天皇(昭和8年生まれ)の新聞切り抜き写真、濃紺絹布、出征垂幕(「海老名某」の名前あり)が入っており、時代の有り様がしのばれる。
中道等氏は、京都大学・東京大学(共に帝国大学時代)で研鑚した歴史学・考古学・民俗学の碩学であり、昭和40年代まで青森県における郷土史のリーダーであった。氏の説明書きを要約すると、「弘仁2年(811)はまさしく田村麻呂逝去の年にあたり、時の嵯峨天皇は、死去した近臣の像(木・画)を集めたと記録に残る。この像は、その時の田村麻呂像を江戸時代になって鋳造したものであろう。」という記述がみられる。
田村麻呂は、延暦年間(782〜805)に征夷大将軍に任命され、
蝦夷(の地を平定したことになっているが、蝦夷の斬首多数のため「首を調べる内人」という刻字になっていると思われる。田村麻呂自身は津軽まで来ていないにもかかわらず、浪岡八幡宮をはじめ、猿賀神社や藤崎八幡宮など、田村麻呂創建と伝える神社は多い。
この伝承の多さをどのように解釈すべきだろうか。
『浪岡町史第1巻』でも示したように、浪岡をはじめとする津軽地域は8世紀までの遺跡は極めて少なく、9世紀になって爆発的に増加する。まさしく、延暦年間を境に遺跡の状況が変化するのである。つまり、津軽の集落が農耕社会に移行した「遠い記憶」を、「坂上田村麻呂」という律令国家のシンボルを介して行う、地域「伝承」と考えることはできないだろうか。
歴史の真実はやぶの中としても、津軽に田村麻呂伝承が存在する事実は消えない。
【町史編集委員 工藤清泰】
『広報なみおか』平成14年(2002)11月1日号に掲載