延元2年(1337)8月、霊山城にいた北畠顕家は、建武政府から離反した足利尊氏を討つため、征西の途につきました。
この年の12月、鎌倉を落とし入れた顕家は、翌年3月摂津の阿倍野(大阪市)で尊氏と戦いました。そして5月、高師直(こうのもろなお)の軍と石津(堺市)で対戦し、討死したのです。時に21才、華やかではありましたが、あまりにも短い一生でした。戦場は石津川をはさんだ辺りと伝えられています。
討死の7日前に顕家は、後醍醐天皇に政策の見直しを奉上しています。その内容をみると、武将として有能だっただけでなく、政治家としても優れていたことが分かります。
石津の古戦場は阪堺電気軌道の石津駅か、南海電鉄の石津川駅から行くのがよいでしょう。紀州街道の「太陽橋」を渡ると、左角に「此附近北畠顕家奮戦地」と刻んだ標石と五輪塔があります。五輪塔の地輪には、「源顕家公」「南部師行公」の名が刻まれています。もっとも、古い石塔ではありません。
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石津古戦場-供養塔と記念碑 |
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阿部野神社 |
【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】
『広報なみおか』平成11年(1999)7月1日号に掲載
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