浪岡北畠氏の足跡(2)
〜多賀城と親房・顕家〜
多賀城(宮城県多賀城市)は律令政府の前進基地で、陸奥の国府(今の県庁とでもいうべきでしょうか)や鎮守府の役割を兼ねていました。設置されたのは神亀元年(724)のことです。建武の新政の際後醍醐天皇は東北地方の支配カを強化するため政庁を置き、北畠氏が関与することになったのです。
陸奥国の国司になった北畠顕家が、義良親王(のりよししんのう・後の後村上天皇)を奉じて任地に赴いたのは、元弘3年(1333)のことです。この時顕家は15才、今でいえば高1、茶髪とケータイの始まる世代です。後見役として父親房も同行しました。
顕家が多賀城で政務をとったのはわずか4年、その間に新政府から離反した足利尊氏を追って上洛するなど、多忙な日々を過ごしました。
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多賀城の石碑 |
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多賀城の政庁跡 |
顕家は津軽地方の平定にも、関心を持っていました。鎌倉時代末期に起きた安藤氏の内紛以来、津軽の政情は安定しなかったのです。元弘3年から翌年にかけて、津軽に逃れた鎌倉幕府の残党を平定するために軍を送り、顕家自身も津軽の視察を計画しています。また建武2年(1335)には南部
師行を津軽に派遣する旨、
山辺(郡政所に連絡しています。山辺郡は津軽4郡の1つで、役所は浪岡にあったという見方があります。
さて、多賀城の政庁跡に残る基壇部の後ろには、後年の建立ですが、「後村上天皇御坐之処」と刻んだ石碑があり、供奉した親房・顕家父子の姿を思い起こすことができます。
多賀城は東北本線の陸前山王駅か塩釜駅から行くのが近いですが、松島観光も含めて計画するのが良いと思います。鉄道を利用する方は仙台駅から仙石線に乗り多賀城駅下車、多賀城廃寺を見学したあと多賀城に行き、塩釜・松島に向かうのが面白いと思います。(次回は霊山城と霊山神社)
【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】
『広報なみおか』平成11年(1999)5月1日号に掲載