今回も『東奥日報』の写真を読みましょう。2枚の写真は昭和12年(1937)5月6日に掲載されており見出しは、
感傷の乙女を誘ふ/谷間の姫百合/湯の沢温泉も近い
の3行、「行楽地春便り」シリーズとして取り上げられています。場所は本郷の“鈴蘭山”で本文には、
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本郷「鈴蘭山」風景 60年前の青春 |
数年前より各地方のハイカー、 女学生等より良き散策地として 知られてゐるが、今年の同山の すゞらんは、大体六月中旬頃満 開となる見込みである
と記し、浪岡駅から本郷経由黒石行“青バス”で30分、本郷対馬精米所で下車後約20町余(2.1km)の行程と述べ、
山頂は風光明媚、津軽平野を眼 下に展望しうる高地にして(中略) 谷間の姫百合と白藤が撩爛と咲 き乱れ、感傷多き乙女達に思い 出多い丘
と報じています。山頂には売店があり、写真館も出張するほどで、行楽地として賑わいました。
新聞の写真は男女別々で、当時の教育を偲ばせます。男の生徒は髪を伸ばしていますから、中学生ではなく高校生と考えられます。もちろん旧制、官立弘前高校生かも知れません。
女学生はどこの女学校でしょうか。男女別々のグループ写真、記者も誤解を生じないように撮影したと思います。それぞれにほのかなときめきもあったでしょう。
男女共学の現在、鈴蘭山があったら、どんな構図の写真が掲載されるでしょうか。ともあれ歌謡曲にも多く歌われてた“鈴蘭”の名所が浪岡町にあったのです。
昭和30年代に入ると採草地だった鈴蘭山は個人に区分けされ、杉が植えられて行きました。杉は日陰を作り鈴蘭の生長は止んだのです。その上、根まで掘って持ち帰る人が多く、名所も姿を消して行きました。鈴蘭山の消滅を心配して保護を訴えた人がいます。『わがふるさと』を記した船水清、『浪岡文化』の著者葛西善一が予言し警告を発しているのです。(『東奥日報』の写真掲載については弘前市立図書館の格別のご配慮をいただきました)
【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】
『広報なみおか』平成11年(1999)2月1日号に掲載
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