浪岡町が交通の要衝にあることは、自他ともに許す所です。江戸時代の末に書かれた『滑稽嘘盡戯』(津軽道中譚)は、「浪岡に到(ママ)り見れば実にも四道<東は青森道、西は弘前道 北は三厩道 南は黒石通り>追分の大駅」と述べています。このほか下十川から十三への道、大釈迦から七段板を越えて新田地帯に達する道も分かれています。
しかし道路の分岐点に立つ交通標識「追分石」は確認できません。方位を示す標識があっても、おかしくない土地柄なのです。
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法峠への追分石(高館) |
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入内への追分石(高田) |
御国三拾三所右往還 奉納 観世音菩薩納経塚 西国三拾三所左入内
と記しています。観音経を納めた塚で、入内観音に参詣する旅人のために建てたもの、信仰心からの造立です。追分石が浪岡町内で確認できないのは①木製の杭で代用していた、②浪岡には三十三観音をはじめ信仰の場が少い、③石材の産地がないことなどが考えられます。しかし追分石は造立されていたのかも知れません。ご存知の方、ぜひお知らせ下さい。
【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】
『広報なみおか』平成10年(1998)1月1日号に掲載
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