あおもり今・昔84

渡辺佐助(4代)と青森の経済界

 青森商業会議所初代会頭渡辺佐助(2代)の孫にあたる渡辺佐助(4代)は、昭和4年に青森商工会議所(青森商業会議所は昭和3年1月に改称した)第10代会頭に就任した。
 渡辺は明治15年、青森町米町(こめまち)(現在の本町付近)で渡辺正助の長男として生まれ、幼名を武助といったが、祖父2代渡辺佐助の死後、4代渡辺佐助を襲名した。新町高等小学校卒業と同時に宮城県白石町(現在の宮城県白石市)にある渡辺家の本家に奉公した。日露戦争に出征し、激戦で有名となった黒溝台(こっこうだい)会戦にも参加して金鵄勲章(きんしくんしょう)を受けている。
▼渡辺佐助(4代)
渡辺佐助(4代)
「青森商工会議所八十五年史」より
 戦後、青森市に戻り、青森銀行(第2次)取締役(明治40年1月就任)、第五十九銀行取締役(大正5年7月就任)、角弘銅鉄店取締役(大正6年7月就任)などを歴任する。この間大正2年には商業会議所常議員となり、さらに大正14年には若干43歳の若さで商業会議所副会頭に就任することとなる。当時の商業会議所の会頭職は、市政にも大きな影響力のあった大坂金助・樋口喜輔・田中勇三の3人によって交互に担われていたが、このようななかで渡辺が副会頭に就任することとなったのは、市経済界における若手の台頭の現れともいえる。そして、この4年後の昭和4年から昭和6年1月までの1年半あまりの間、会頭として青森の経済界の舵取りを担うこととなる。
 渡辺が会頭に就任した昭和初期におけるわが国の経済は、大正12年の関東大震災からの復興の途上にあって、金融恐慌さらには世界恐慌が襲いかかってきた時期であり、本県でも銀行の破産や合併が相次いでいた。特に渡辺の出身母体でもある第五十九銀行の混乱は渡辺を大いに悩ませ、会頭時代そして辞任後も、頭取の宇野や取締役の佐々木と協力してこの事態の収拾に尽くしている。
 戦時体制の統制下には、昭和18年、県下中央銀行(青森銀行(第3次))成立や県商工経済会設立に尽くし、戦後は、丸屋醸造株式会社社長、角弘銅鉄店社長、昭和29年には青森銀行頭取に就任した。渡辺佐助(2代)と同様、政界に身をおくことはなく、終生にわたって実業界で活躍し、昭和30年2月1日に73歳で急逝している。 (敬称略)
【近・現代部会長 末永洋一】

※『広報あおもり』2001年1月15日号に掲載


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