なみおか今・昔84

なみおか町史コラム(14)

〜リンゴ栽培の先駆者達〜

 リンゴのまち浪岡町は、栽培面積1900ヘクタール、常に高品質のリンゴを生産し、「リンゴ王国青森」を全国に発信する大きな力となっている。環境的にも丘陵地帯を主にし、背後には、八甲田連峰を背負い、冷たいヤマセの影響をあまり受けることもなく、栽培地としては理想の土地である。しかし、理想の土地ということだけでは、このように拡大発展することは無理なことであり、この地で、リンゴ栽培に情熱を傾けた人々がいたからこそといっても過言ではない。
 浪岡町にいつごろリンゴが導入されたかについては、様々な説はあるが、記録に残っているものでは、明治政府の西洋果樹奨励策が基盤となった明治10年(1877)以降からである。当時、栽培に着手した人々は、主に財力のある水田地主であった。本郷村の鎌田政道、形助父子、吉内村の間山勝之助が最初の試植及び栽培者たちといわれている。次々に、栽培者が出てくる中、女鹿沢村の海老名文八郎は、水田2町歩に転作するという、当時では珍しい方法でリンゴ園を開園している。また、苗木の生産販売もおこなっており、その宣伝方法も新聞の広告欄を利用するなど、新しい取り組みをしている。また、収穫したリンゴを貯蔵し、市況を見て出荷するという流通の極意を極めた方法をおこなっており、市場流通関係の方では、「海老名の囲いリンゴ」として有名であった。明治24年には、浪岡村の平野郡平が私設のリンゴ品評会をおこない高い評価を受けている。
 野沢村の村長を務めた対馬政治郎は、明治42年、リンゴの枝の剪定方法に、それまで主流をなしていた「段仕立て」から「一段形剪定」を取り入れ、良品質のリンゴ生産に成功している。後に、剪定の主流は「一段形剪定」へと変わっていき、剪定方法に貢献した人物である。
 第2次世界大戦後、生産者を中心とした唯一の民間団体として、「青森県リンゴ協会」が発足した。その協会では、昭和32年(1957)から、「青森県リンゴ基幹青年」として、リンゴ栽培の中心的役割を担う指導者の養成を目的に、栽培に携わる若者を集め研修をおこなっている。当町関係者分としては、第1期生の長谷川次郎、福士幸美、木村富行、第4期生の太田定昭、第6期生の小野幸村などがあげられる。この人たちは、3年間の研修終了後、地域の指導者として、リンゴ栽培に携わる若者の育成に貢献した。
 このように、リンゴ栽培に情熱を傾けた先駆者達の功績があるからこそ、次代を担う若い芽が次々と育ち、今日の浪岡リンゴがあるのです。

【町史執筆委員 奈良岡洋一】

『広報なみおか』平成14年(2002)6月1日号に掲載


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