なみおか今・昔14

町史研究余録(14)

〜町村制度の施行と女鹿沢村〜

 町村制施行により新しい村が発足したのは明治22年(1889)のことです。それでは国道7号で弘前に行くとき、浪岡村の南側はどんな村を通ったか考えてください(解答は文末)。
 女鹿沢村の大字は増館・下十川・女鹿沢の3つでした。明治34年(1901)の人口は2,561人、戸数にして363戸ありました。このころの農産物には、米・むしろ・大豆・だいこん・じゃがいもなどがあげられています。じゃがいもは、明治時代後期に導入された作物です。そのころの「東奥日報」にはじゃがいもの食べ方の講習会開催を報じる記事がよくみられます。
 りんごの栽培は明治末期で9町6反歩、3反歩以上作付けしている農家は6戸に過ぎません。野沢村や五郷村にくらべると、りんご農家は少なかったようです。しかし浪岡駅裏手には大規模農園の経営が進んでいました。
旧女鹿沢村役場(下十川駐在所の裏手)
 水稲耕作が中心だった女鹿沢村の農家数は、明治時代末期で351戸、そのうち自作農が40戸、自小作が141戸、小作の数は171戸となっています。女鹿沢村の人口はその後あまり変化していません。第1次大戦後の大正10年(1921)には2,777人、昭和5年(1930)には明治34年を下回る2,542人となっています。長引く不況で小作人が他地域に流出したのでしょうか。その後、国策により増加にむかい、昭和22年(1947)には3,580人に達しました。
 女鹿沢村の役場は下十川にありました。創村当時、小学校は女鹿沢と成業の2校に整理されていました。両校とも尋常科だけでしたが、明治33年には女鹿沢小学校に高等科が設置されました。

(解答:女鹿沢 → 富木舘 → 常盤 → 十二里 → 藤崎 → 和徳 → 弘前)

【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】

『広報なみおか』平成8年(1996)8月1日号に掲載


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