なみおか今・昔15

町史研究余録(15)

〜明治時代の野沢村〜

 町村制が施行されたころ、南津軽郡には黒石町のほか28の町村がありました。県内で当初から市制をしいていたのは弘前だけでした。今回は野沢村について考えたいと思います。この村は、(しろがね)(たるさわ)郷山前(ごうさんまえ)吉野田(よしのだ)の4つの大字から成っていました。杉・三好などの集落はすでに銀や沢に吸収されていたのです。
 野沢村の人口は、明治26年(1893)8月4日付の「東奥日報」が2,156人あったと報じています。また明治42年(1909)の統計によると、現住人口は男1,406人、女1,399人、合計2,805人ありました。16年間に650人ほど増加したのです。野沢村の役場は沢に置かれました。ちなみに、三戸郡にも同名の村がありました。
野沢地区の豪農の家(明治45年)
野沢地区の豪農の家(明治45年)
 教育の面では2つの簡易小学校が明治25年に統合され、野沢小学校が誕生しました。この年の就学率は男58%、女10%と低調でしたが、明治42年度には男子99.5%、女子98.5%まで向上しています。もっとも出席率は男子の92%に対し女子は85%と低く、明治末期の女子の教育の姿を知ることができます。
 主要産業はもちろん稲作でした。明治42年の農家数は専業372戸、兼業21戸、合計393戸、この内小作は282戸と高率です。農作物の中で目立つのは大豆・小豆・そばなどです。りんご園の面積は広く浪岡地域で群を抜いていました。
 村内で商業を営むものは28戸、工業は4戸でした。また、明治30年代には油田の調査が進んでいます。明治34年(1901)12月には吉野田の1号井が試運転をはじめ、2号井の準備も進みました。石油開発の跡は今どうなっているのでしょうか。

【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】

『広報なみおか』平成8年(1996)9月1日号に掲載


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