冬の味覚・鱈は、昭和2年(1927年)に油川前沖で大漁があったと記録(西田源蔵「油川町誌」)されるなど、かつては青森湾内にまで回遊して来ていました。 ところで、藩制時代の弘前藩には「献上鱈」という制度がありました。これは、上磯沿岸で捕れた一番鱈を藩主に献上するもので、これを済ませないと下々ではジャッパ汁を食べられません。 弘前藩用人三橋左十郎編集の「要記秘鑑」(弘前市立図書館蔵)によると、文化6年(1809年)の12月、その年は不漁の影響で一向に献上鱈が集まりません。そこで油川・後潟組代官今井良作は、年が明けた文化7年の正月、管内全漁村の庄屋へ、「早急に献上鱈を上納すべし」と命令を発しました。そして、何とか蟹田の市場に鱈は集められましたが、今度は油川からは一本も上納されていないことが分かりました。怒った代官は、さっそく油川漁師頭藤吉を代官所に呼びつけ厳しく問いただします。 「おい藤吉よ。献上鱈一本も上げないとはどういうことだ」 「鱈網ァ仕込まねもの、鱈ァ捕れる訳ァねべァな。」 「これ、言葉を慎め。拙者に断りもなく、何ゆえかようなことをしたのか。」 「だって代官様。今年ァどうやら不漁だし、それに網仕込んで少しばかり捕れても、蟹田の市場サ運べば割に合わね。だから鱈網ァ仕込まないことにしたノシ。何とか献上鱈は勘弁してもらいますジャ。」 「そちの言い分は聞き届けた。さっそく奉行に報告するが、献上鱈不献上とあらば由々しきこと。追って沙汰を待て。」 きっとこんなやりとりがあったはずです。
寛永2年(1625年)の青森開港の後、新しい町「青森」を繁栄させるため、弘前藩は青森以外の外ヶ浜沿岸諸村では船による商いは一切差し止めるなどの経済封鎖を行っていました。そのため、油川ではかつて盛んだった北前船の出入りや魚の水揚げ・販売も出来なくなるなど、生活権を脅かされていました。「弘前藩国日記」(弘前市立図書館蔵)には、安政3年(1856年)に油川漁民が海上の船の上で魚を売る手段にも出たが、蟹田の魚商たちから告発され、「油川の者ども仕癖宜からず不埒の者」と勘定奉行に叱責されたことなど、油川漁民の姿が記録されています。 「献上鱈」の話などは、油川漁民の権力にも屈しない不屈の魂と、臆せず、逡巡せず、堂々と実行するバイタリティーを現在の私たちに伝えているようです。 【近世部会調査協力員 木村愼一】 ※『広報あおもり』2002年3月1日号に掲載 |