あおもり今・昔101

人生儀礼の変貌

 これまで、市内の一般市民の生活を調査対象にした民俗分野の著書はあまり目にすることができなかった。今回、「新青森市史」の中に人びとの生活史を組み入れたことは、誠に当を得た企画だと思う。
 ところで、大正・昭和・平成と社会環境や生活環境の変貌はすさまじいものがあり、記録に留めておく必要性を痛感させられている。実際、市民の間に入ってお話を聞いてみると、その生活の様子を知る時間的な範囲は、大正10年代から昭和初期にかけてが上限であり、また、民俗調査の一分野である「人の一生」すなわち、産育、婚礼、葬制などの儀礼についても、古い様相を映像で記録に残すことが難しい状況になっている。
 陣痛が始まると、お産の世話をしてくれた産婆の名を叫んで出産した人や、腰抱きと一緒に産婆が「ホラ」「オイ」と掛け声をかけて産婦を力づけてくれた話など、お産の中心的な役割を果たしてきた産婆の活躍ぶりを語る人も少なくなってきている。
 現在は医師の世話で出産することが当たり前であるが、昭和37年頃までは病院で出産する産婦は、お産に弱い人か病弱な産婦であったという所もある。その当時のお産は家の寝床にわらを敷いてサントの巣をつくり、そこに座って出産する座産も多く見られたようである。
 婚礼については、嫁が実家で祝ってもらってから婚家へ送られて行って祝言を挙げるという形であった。それが近くの集会所などで祝言を行うようになり、更に街のホテルで嫁婿両家が合同で結婚式を挙げるようになった。当然、婚家への入家の作法などもその形を見ることができなくなった。また、最近は仲人をおかず親戚の人びとも含めて、多くの出席者の前で行う、人前結婚という形のものも現れてきている。
 葬制も時とともに様変わりしてきている。昔は死者の出た喪家で葬式を行なうのが一般的であり、しかもどこも土葬であった。それが浅虫地区では昭和14年頃から火葬が普通となり、大矢沢地区では昭和10年頃から火葬が行われたという。これは野焼きといって、台の上に棺桶を上げ、その周りにわらを積み上げて焼くものであった。合子沢地区では昭和31年頃になって斎場で火葬するようになった。そして寺院や集会所で通夜・葬式を行ったり、さらにはホテルを借りて一切を執り行うような場合もあったという。
 この葬儀を行う会場の変化とともに、弔問客に出される料理も魚や肉などが含まれるなど変わってきている。
 いずれにしても、紹介した一例を含めて「人生儀礼」は激動する社会環境や生活環境などの中で、様相を大きく変えている。これは同時に、人びとの意識や心のよりどころの変化も表しており、その起因する要素にも関心があるところである。
 今こそ、家族や地域などの場で「温古知新」の試みをすることも大切なことではないだろうか。
【民俗部会長 三浦貞栄治】

※『広報あおもり』2002年4月1日号に掲載


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