あおもり今・昔29

縄文人の先祖供養

 仏教に盂蘭盆(うらぼん)という行事があるが、私たちは年中行事の一つとして、花と食物を携え、お墓参りをしている。その時期になると、普段静まり返っているお墓は、非常に賑わうことになる。
 ところで、最近の発掘調査によって、遠く縄文時代にもそうした風習があったのではないか・・・と思われる遺構が検出されている。
 三内丸山遺跡からは、縄文時代前期から中期にかけての多くの住居跡が発見されており、さらにそれに匹敵する規模のお墓も発見されている。
国指定史跡「小牧野遺跡」
▲国指定史跡「小牧野遺跡」
 東北地方では、縄文時代後期になると大規模集落は姿を消し、分散集落の形態をとるようになる。その頃になると小牧野遺跡などに見られるように、一定の場所に大規模な環状列石(ストーンサークル)が造営されてくる。秋田県鹿角市大湯の万座・野中堂環状列石、同県鷹巣町の伊勢堂岱(いせどうたい)環状列石なども同様である。これらの遺跡では、河原から何千個もの石が運ばれて環状列石が構築されていることから、多くの人力と日数を要したものと思われる。
 しかし、これまでそれぞれの遺跡で列石周辺の調査が行われているが、構築した人々の住居跡は未だ発見されていない。
 そのかわり四角形あるいは六角形の建物跡が、環状列石の周囲から検出され、しかも、何回となく建て替えられていたのである。
 環状列石は、いくつかの集落が共同で造営したお墓と考えられており、年に何度か「先祖供養」のために集まり、簡単な小屋を造って何日か滞在したものと思われる。
 普段はひっそりと静まり返っている環状列石も、この時ばかりは非常に賑わっていたのだろう。
【考古部会執筆編集員 葛西勵】

※『広報あおもり』1998年10月1日号に掲載


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