ホーム > 文化・スポーツ・観光 > 歴史 > メールマガジン「あおもり歴史トリビア」 > 「あおもり歴史トリビア」第201号(2016年3月18日配信)
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更新日:2018年1月18日
こんにちは!室長の工藤です。
みなさんは「箱館焼」という焼き物をご存知でしょうか。
これは、江戸時代の末期、万延元年(1860)~文久2年(1862)というごく短い期間に(明治元年〈1868〉までという説もあり)に作られたもので、産業振興の一環として箱館奉行所の出資によって製陶されました。
販路は箱館のほか、江戸・大坂方面にもあったことが知られ、焼酎の容器としても使われていたといいます。ところが、これに加えて青森にも販路を広げようとしていたことが、箱館奉行所沖之口掛が作成した文書の綴りから明らかになりました(谷本晃久「箱館奉行所沖之口掛集積史料にみる幕末の青森湊と箱館湊―《箱館焼》・有川村生鯡・無判便貰之者」)。
函館山の麓(元町公園)にある箱館奉行所跡
慶応2年(1866)4月、鉱物生産や製陶事業など産業振興を担当する部局である箱館奉行所産物掛が、箱館で製造した陶器類の「津軽青森」での販売を計画しました。この時点では、既に閉窯になっていたと思われるのですが、どうやら在庫がだぶついていたようなのです。そこで、青森の市場にこれを流通させることによって解決しようとしたのです。
しかも、青森にはそれを「望人」、つまり売りさばく青森商人の算段が既についていたようなのです。そこで、青森浜町の豪商滝屋の史料を繰ってみることにしました。すると、この頃、箱館焼の売りさばきに関わったとみられる箱館の福嶋屋がたびたび青森にやってきていることが分かりました。ただ、残念なことに箱館が米不足に見舞われていたための、米の取引に関わる記録しか出てきません。
一方、福嶋屋は滝屋よりも八戸屋と親しかったということを匂わせる記述があります。箱館焼を売りさばくことになっていた商人は八戸屋だったのでしょうか…。また、市内のどこかに箱館焼があるのではないか…。もし発見されれば、文化史的にも青函交流史においても新たな1ページが刻まれるのではないでしょうか。箱館および付近の風景、アイヌ文様や風俗を描いたものが多い陶磁器だそうですよ。
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