ホーム > 文化・スポーツ・観光 > 歴史 > メールマガジン「あおもり歴史トリビア」 > 「あおもり歴史トリビア」第198号(2016年2月26日配信)
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更新日:2018年1月18日
こんにちは!室長の工藤です。
今回は、藩政時代の青森町の人口動態について紹介します。まず、藩政時代の青森町の範囲は、東は堤川、西は古川村(村境は特定できません)を境とし、南は概ね駅前通り、北は青森警察署の南側までとなっていました。弘前藩がここに新しい町づくりを始め、完成したのが寛文11年(1671)頃です。それから13年経った貞享元年(1684)には、青森町の戸数は898軒であったことが知られています。試みに、幕末期の1戸当たりの平均人数4.9人をこれにあてはめてみると、総人口は4,400人と推計されます。これが、青森町誕生間もない頃の人口とひとまずは考えておきましょう。
町づくりの3段階
それから約170年後、幕末の嘉永6年(1853)になると、青森町の総人口は8,087人と貞享元年の約1.8倍となり、慶応元年(1865)にはついに10,000人を超える人口を抱えることになりました。
また、私の手元に嘉永6年から文久2年(1862)までの10年間の人口データがあります。このデータは、青森町を大町・米町・浜町・新町・博労町・安方町・蜆貝町・大工町の8つのブロックに分け、それぞれの人口や戸数を書き上げたものです。データによれば、この10年間の青森町の人口は年平均1パーセントの増加率で推移しています。このうち、8つのブロックで平均値を上回るのは、大町と米町の2パーセント、そして突出しているのが町の北西沿岸部にある安方町の4パーセントです。
青森町では、荷役労働をはじめ湊の港湾・商業機能を支える労働力として日雇層が多く、慶応3年のデータでは全戸数の18パーセントが日雇層で、もっとも比率の高い職種となっています。しかも、安方町はこうした日雇層の占める割合が高かったといわれています。さらに、安政2年(1855)の箱館開港に伴い、蝦夷島(現北海道)では従来からの漁場での労働力のほかに、箱館やその周辺での奉公人としての労働力需要が増大していたといいます。そして、こうした労働力として弘前藩領から人が移動するとき、渡海地の一つである青森町が一旦彼らを労働力として引き受けたケースがありました。
慶応3年の青森町職業別軒数
(『新青森市史』資料編4より)
つまり、安方町の際立った人口増の理由は、こうした移動する一時的な労働力を日雇層として吸収していたからではないでしょうか。また、逆の見方をすれば、青森町はこうした労働力を吸引できるほど発展していた「港湾都市」といえると思うのです。
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