ホーム > 文化・スポーツ・観光 > 歴史 > メールマガジン「あおもり歴史トリビア」 > 「あおもり歴史トリビア」第17号(2012年7月27日配信)
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更新日:2015年6月1日
梅雨が明け、青森にも暑い夏がやってきました。
この季節は、深い祈りの季節でもあります。明日、7月28日は青森空襲の日。
戦後67年が経過し、戦争を体験したかたが少なくなる中で、青森空襲の記憶は薄れてきているのではないかと感じています。しかし、この記憶は、何にもまして次代につなげていかなければならない青森の歴史です。
先日、私たち市史編さん室職員は「青森空襲を記録する会」が主催する「青森空襲の跡をたどる集い」に参加してきました。これは、青森空襲の痕跡をバスで巡るもので、空襲で焼け残り、その直後は市役所として、後に進駐軍司令部として使われた公会堂跡(現「しあわせプラザ」)をスタートし、蓮華寺など空襲の記憶をとどめる各所を回りました。
きょうは、その中で紹介していただいたことを参考にしながら、青森空襲についてお知らせしたいと思います。
皆さんは、市街地が空襲を受ける少し前に、青函連絡船が空襲を受けたことを知っていますか?昭和20年7月14日、15日、函館湾、津軽海峡、そして青森湾で青函連絡船が攻撃を受け、青函連絡船は全滅し、多くの死傷者を出しました。私は、今回の「青森空襲の跡をたどる集い」で、空襲から60年目の平成17年に八甲田丸近くに建てられた「青函連絡船戦災の碑」を初めて訪ねました。その際、青森湾内の連絡船の攻撃は岸から見え、多くの市民が目撃していたことを聞き、目前の戦闘・攻撃に市民の驚きと恐怖は計り知れないと思いました。
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この青函連絡船への攻撃や7月10日の仙台空襲をきっかけに、多くの市民が郊外へ避難したといいます。しかし、当時は「防空法」という法律があり、空襲による火事を消火させるために勝手に自分の家から離れることが禁じられていました。そのため、「7月28日までに戻らなければ市民は人名台帳から抹消し、物資の配給を止める」との命令が出され、これによって郊外に避難していた市民が28日までに戻ってきていました。くしくも28日、青森空襲の日です。
空襲前日、アメリカ軍は空襲の予告ビラ6万枚をまきましたが、軍や警察がこれを回収したため、この警告は市民に伝わらなかったといいます。
青森市空襲前日、米空軍が投下したチラシ(表)
(『目で見る青森の歴史』より)
青森市空襲前日、米空軍が投下したチラシ(裏)
(『目で見る青森の歴史』より)
多くの市民が戻ってきた28日の夜、この警告が伝わらないまま、青森市は空襲を受けたのです。この空襲で市街地の81%が消失したといわれ、7万人が罹災する(国への「奏上書」による)という被害が発生しました。空襲の惨状を思うとき、これほど痛ましく、悔やまれることはないでしょう。
防空法に基づき避難を禁じた当時の金井知事は、戦後、「戦災犠牲者の慰霊、平和社会の建設」の悲願を込めて「平和観音像」建立の発起人となりました。観音像は、これに賛同した市民の協力によって、昭和23年、爆撃の中心地となった国道柳町交差点ロータリーに建てられました。交通の激化に伴い、昭和39年に柳町グリーンベルトに移転、現在は、およそ10メートル北に、二代目となった観音像があります。二代目は、最初の観音像の塑像原型に基づき新たに鋳造されたもので、三國慶一の手による最初の平和観音像は、慰霊碑としての役割を終えて、現在、青森市文化会館の四階に置かれています。
現在の平和観音像
初代・平和観音像
(青森市発行『目で見る青森の歴史』より)
青森空襲の日の明日、午前10時から、アピオあおもりで「青森市戦没者慰霊祭」が行われます。ご遺族だけでなく、どなたでも参列することができます。戦没者のかたたちへの祈りとともに、平和への願いを捧げる機会としていただけたらと思います。
また、7月29日までの日程で、さくら野デパートで「青森空襲を記録する会」主催の「青森空襲展」(250点余りの写真や空襲予告のビラなどを展示)が開催されています。このトリビアを読んで、青森空襲を知りたいと思ってくださったかたは、足を運んでみてはいかがでしょうか。
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