ホーム > 文化・スポーツ・観光 > 歴史 > メールマガジン「あおもり歴史トリビア」 > 「あおもり歴史トリビア」第18号(2012年8月3日配信)
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更新日:2015年6月1日
こんにちは!事務長の工藤大輔です。
昭和63年(1988)3月13日の青函連絡船(以下、「連絡船」とします)第101便「桧山丸」、当時19歳の私が最後に連絡船に乗船した日です。それは、奇しくも、定期航路の最終日でした。当時のアルバムのメモによれば、青森発0時5分、京都からふるさと札幌への帰途、たまたま最終日の連絡船に乗り合わせました(下の2枚の写真はその時のものです)。
定期航路最終日
桧山丸船長のサインカード
北海道で生まれ、とくに中学・高校生の青春期を札幌で過ごした私にとっては、「連絡船」イコール「修学旅行」となります。そして、初めての「連絡船」が中学3年生の修学旅行で、これまた初めての「青森」でもありました。ですから、私のなかでは、今でも「青森」と「連絡船」というのは、分かちがたいものとして結ばれています。しかも、ぶぅ~んとひとっ飛びの飛行機とは違い、「あぁ~内地(ないち)に行くんだなぁ」という感覚が濃かったようにも記憶しています。
さて、『広報あおもり』や新聞などでも紹介されているように、先日7月31日から青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸に新しい展示、「青函ワールド」がオープンしました。
メモリアルシップ・八甲田丸
「青函ワールド」オープンのチラシ
ここでは、昭和30年代の青森駅前の朝市や連絡船の乗り場のようすなどが、ジオラマで表現されています。さしずめ、「三丁目の夕日」の青森版といったところでしょうか。
大衆魚菜市場
りんご市場
さきに紹介した私のちっぽけな想い出はともかく、市民のみなさんには、連絡船とそれにまつわる青森の風景にはさまざまな想いを抱いていらっしゃるかたも多いことでしょう。
また、一方で、定期航路が廃止されて四半世紀余りが過ぎ、連絡船をまったく知らない世代もずいぶんと増えたことでしょう。
その意味でいうと、連絡船は鉄道車輌そのものを積み込んでいた…なんていったらびっくりされるかたもいらっしゃるでしょうね。(八甲田丸の車両甲板をのぞいてみてください。)そのための施設である可動橋(八甲田丸の後方にあります)は、去年、八甲田丸とともに日本機械学会の「機械遺産」に認定されたのですよ。
可動橋
車両甲板
この夏、八甲田丸の「青函ワールド」で連絡船と昭和30年代の青森を懐かしんだり、また、船内をぐるり見学して連絡船の歴史に触れてみる…そんな時を過ごしてみるのはいかがでしょうか。
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