ホーム > 文化・スポーツ・観光 > 歴史 > メールマガジン「あおもり歴史トリビア」 > 「あおもり歴史トリビア」第19号(2012年8月10日配信)
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更新日:2015年6月1日
暑い夏を迎えるたび、青森空襲、広島・長崎の原爆投下、そして8月15日の終戦…昭和20年(1945年)のこれら一連の出来事が、記憶の底から立ち上ってくるというかたも少なくないでしょう。戦争を経験した世代だけでなく、人々の祈りの姿や平和への思いが、報道などを通じて、この季節のメッセージのように届けられる私たちの胸にも、夏の記憶としてそっと刻まれているような気がします。
先日、この歴史トリビアで、青森空襲についてお知らせしましたが、その際、読んでくださったかたから「青森空襲の話をありがとうございました」というメールを市史編さん室あてにいただき、とてもありがたく、また心強く感じました。
私自身、今回、「青森空襲の跡をたどる集い」への参加を通じて青森空襲や戦争について理解が深まったことで、戦中・戦後を過ごしてきたかたたちの犠牲や努力によって今の平和、今の青森があること、悲惨な戦争を二度と起こしてはいけないこと、平和の尊さなどに改めて気づかされました。まずは知ることが大切なのですね。
まもなく、終戦記念日――。今日は、前回に続き、青森空襲に関連した話をもうひとつお届けします。
みなさんは「建物疎開(たてものそかい)」を知っていますか?
「建物疎開」とは、空襲に備えて、避難道路を確保することや、火災が拡大しないようにすることを目的に行った建物の強制撤去のことです。青森市では、昭和20年に、浪館通り、八甲通り、柳町通り、税務署通り、平和公園通りなどが、建物疎開によって道幅が広げられました。これによって、多くのかたが住家を失い、疎開を余儀なくされたといい、「青森空襲の跡をたどる集い」の際、「青森空襲を記録する会」の会長さんから、撤去される家の人々の辛い思いについても言及がありました。住み慣れた家が解体される辛さは想像にかたくありません。
私は、ちょうど、市史編さん室の勤務となったばかりの頃に「建物疎開」についての問合せを受け、記録を調べたことがありました。「建物疎開」??―初めて聞いた言葉でした。
調べていく中で、『青森空襲の記録』(1972年、青森市発行)に掲載された、八甲通りの建物疎開によって家を撤去されたかたの言葉をみつけました。そこには、解体が決まったときは涙が止まらなかったことが書かれていました。けれども、実際に空襲があった後に、八甲通りの建物疎開が役割を果たしてたくさんの市民や警防団員が助かったことを聞き、自分たちの建物疎開が役立ったのであれば…という思いにいたったことも記されており、記録を読みながら、この時代に生きた人たちに思いを馳せました。
『青森空襲の記録』(1972年、青森市発行)
「県会議事堂から青森駅方面を望む」(青森市発行『目で見る青森の歴史』より)
「復興した青森市街」(昭和29年頃の八甲通り、『復興した新しい青森』より)
現在の八甲通り(アスパムから県庁方向を眺める)
この『青森空襲の記録』には、多くの市民のかたたちの空襲の記憶が掲載されています。こうした記録も参考にしながら、次代に伝えていかなければならない戦争の記憶を、今後も折にふれ、お知らせしていきたいと思います。
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