ホーム > 文化・スポーツ・観光 > 歴史 > メールマガジン「あおもり歴史トリビア」 > 「あおもり歴史トリビア」第23号(2012年9月7日配信)
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更新日:2015年6月1日
こんにちは!事務長の工藤大輔です。
皆さんはこんな話を聞いたことがありますか?
「現在、善知鳥神社の境内にある『うとう沼』は、かつては安潟(やすかた)といって周囲が5、6里(20~24km)もあるとても大きなものでした。ところが、横内城主である堤(つつみ)氏(南部氏の一族で、15世紀の末に堤川河口部の『堤浦(つつみうら)』に派遣されました)が荒川を開鑿(かいさく)して流路を変えたことによって、安潟は小さくなり、その痕跡として『うとう沼』が残るだけとなりました。」
現在のうとう沼
さて、前半の「安潟」ですが、藩政時代に弘前藩が幕府に提出した津軽領の絵図のなかに、「青森村」と「沖館村」にはさまれて「やすかた」という沼地が描かれています。東西が78間(約140m)で南北が14間(約25m)のこの沼が、ここでいう「安潟」に通じる沼なのかもしれません。
また、文献史料でもこの「安潟」について探してみたのですが、手がかりはなく、ましてや「安潟」が小さくなって、それが現在のうとう沼になったという記録にはついに行き当たりませんでした。
つぎに、後半の堤氏による荒川の開鑿についてみてみましょう。この話は、2008年のねぶた祭りで、「堤弾正、荒川を鎮める」(私たちのねぶた自主製作実行委員会)という大型ねぶたが作成されたように、市民の皆さんにとっては「お馴染み」の歴史エピソードといえるかもしれませんね
荒川と駒込川の合流点
2つの川の合流点付近に堤氏の居城(古館)がありました(『新青森市史』資料編2古代・中世より)。
私自身も、この話を耳にしたことはありますが、具体的に文献史料で確認できていません。ですから、私にとっては「お馴染み」ではなく、むしろ「謎」の歴史エピソードでした。
ところが、この「謎」も解けたといっていいでしょう。
次回の担当分で、その「謎解き」をしようと思います。
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