ホーム > 文化・スポーツ・観光 > 歴史 > メールマガジン「あおもり歴史トリビア」 > 「あおもり歴史トリビア」第24号(2012年9月14日配信)
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更新日:2015年6月1日
こんにちは!事務長の工藤大輔です。
今回は、前回(9月7日)の続きで、堤(つつみ)氏による荒川開鑿(かいさく)の謎解きをいたしましょう。
かつて、とっても大きかった「安潟(やすかた)」は、堤氏が荒川を開鑿して流路を変えたことで、安潟へ注がなくなり、小さくなって現在のうとう沼にその痕跡をとどめるのみになりました。
堤川の解説板
『青森沿革史』序
さて、この堤氏による荒川開鑿ですが、これは何らかの記録にそう書いてあるのではなく、安潟が小さくなっていった理由を説明するための「仮説」だったのです。
この説は、明治42年(1909)発行の青森市の歴史を綴った最初の本である『青森沿革史』で、編者である葛西音弥(かさい・おとや)が主張したものです。ただし、この仮説は昭和9年(1934)に小友叔夫(おとも・としお)によって「机上の空論」と喝破されています(開鑿自体は否定していません)。その後も、昭和33年(1958)肴倉弥八(さかなくら・やはち)がこの仮説を否定しています。肴倉は、荒川が洪水のたびに土砂を運び込み、安潟を徐々に埋めていったと説明しています。
それでも、この仮説が現在でも「歴史的事実」のように広く定着しているのは、昭和31年に発刊の『青森市史』港湾編上で、葛西の説が支持されたからでしょう。肴倉は、『青森市史』の編集に大きく関わっていた人物でしたが、さきの自説を発表した後、昭和47年の『青森市史』社寺編でも、通説的見解ということだったのでしょうか、葛西の説を支持し続けました。
さて、近年になり、「土木」の視点からのメスが入りました。それによると、荒川流域の自然地形が改変された形跡はないということでした。
安潟の縮小と堤氏の荒川開鑿…どうやら、研究史的には否定された見解とみていいでしょう。では、安潟はどうして小さくなったのか…これがつぎに解決すべき疑問点になってきますね。これからの研究に期待しましょう。(敬称略)
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