ホーム > 文化・スポーツ・観光 > 歴史 > メールマガジン「あおもり歴史トリビア」 > 「あおもり歴史トリビア」第83号(2013年11月15日配信)
ここから本文です。
更新日:2015年6月1日
浅田祇年(あさだ ぎねん)といえば、名前を聞いたことがあるかたも多いのではないでしょうか。
俳人として、また、商人として地域振興に尽くした人物であると伝えられています。家業は定かではありませんが、相当大きな商家に生まれ育ち、学問的にも大変優秀であったそうです。
浅田祇年の本名は理助と言いました。この理助に転機が訪れるのは明治5年(1872)のことです。
浅田祗年(『青森市史』別冊人物編より)
陸軍省が筒井村に営所をつくるための実地調査を行うにあたって、青森町の理助方が本陣(要人の宿泊所などとして指定された家)とされ、理助も案内役として調査に同行しました。翌年に計画通り青森町に営所(筒井)と練兵場(造道)が設置されることになると、筒井の村の人々はそれに驚き、鍬鋤(くわすき)を手に理助の家へ詰めかけたのです。
これには、青森県権令菱田重禧(ひしだ しげき)も、田地の買い上げは差し押さえではなく正当な対価が支払われるものであり、浅田家を責めるのは心得違いだと告諭を発しました。実際に買い上げとなった土地の所有者には減免の措置がとられたようですが、事態が沈静しても不安に思ったのでしょう、理助は福山(今の松前)へ避難します。
避難先の福山で、ひとつの出逢いが待っていました。同宿した相手は菓子職人だったのです。この時に、菓子の製法を教わった理助は、青森に戻ると「甘精堂」という屋号で菓子の製造・販売をはじめます。青森町は人口が大きく増加する時期でしたから、菓子消費は伸び続けました。
この機運に乗った理助は、青森町ではじめて蒸気で動くアメリカ製の精米機を購入して、それまで人力であった精米を一気に効率化しました。これが、青森町の米穀商売の流れに大きく影響を与えたようです。
理助の「甘精堂」と、現在知られる「甘精堂」の関わりについて、今は知る材料がありません。
しかし、俳句の宗匠として多くの門弟を育て、自らも俳諧を究めた浅田祇年は、その道でも多くの人に知られています。
旧東北本線の跡地にある「文芸のこみち」には、浅田祇年の句碑が建立されています。この句碑には、晩年に病の床で詠んだ「雪と寝て 花に起きたる まくらかな」という句が刻まれています。
文芸のこみちにある浅田祗年の句碑
問合せ
より良いウェブサイトにするために皆さんのご意見をお聞かせください。
Copyright © Aomori City All Rights Resereved.