ホーム > 文化・スポーツ・観光 > 歴史 > メールマガジン「あおもり歴史トリビア」 > 「あおもり歴史トリビア」第124号(2014年9月12日配信)
ここから本文です。
更新日:2017年3月17日
こんにちは!室長の工藤です。
合浦公園のなかには多くの石碑があるのは、みなさんご存知のことと思います。
今回は、これらの石碑のうち、水原衛作が公園を築造した頃に建てられた碑を中心に、草創期の合浦公園について考えてみようと思います。
故水原衛作君紀念之碑
『新青森市史』通史編第3巻近代(以下、「近代」と略記)によれば、そもそも公園の正門は現在の公園南側ではなく、園内を東西に横断する旧奥州街道にある現在の西門側にあったといいます。そして、その当時の公園を西側の正門から描いたもの(青森県立郷土館蔵「造道公園地之図」、以下「絵図」と略記)が併せて掲載されています。「近代」では、この「絵図」の年代を水原の没年である明治18年(1885)頃としていますが、私はあと数年下るのではないかと見立てています。
合浦公園西門
さて、「絵図」をよくみてみると、旧奥州街道の南側に3つの石碑、そして北側に1つの石灯篭が描かれていることに気がつきます。すなわち、(1)「司馬龍橋句碑」、(2)「不二亭祇山句碑」、(3)「山田秀典君碑」、(4)「灯籠銘」の4つです。このうち、(2)は本来別の場所にあり、明治21年以降に園内に移された碑です。そして、詳細は省略しますが、(1)(2)は水原が合浦公園開設にあたって尽力した人を顕彰する石碑で、(4)は経済界の有力者として知られる渡辺佐助が、水原の公園開設事業に際して寄付した「美石五重野景夜灯」です(個人蔵資料「公園草創」)。
|
|
(4)灯籠銘
しかも、これらの(1)(3)(4)の3つが建てられたのはいずれも明治16年です。きっかけは、前年に県令山田秀典が亡くなったことにあるのかもしれません。「近代」によれば、水原がこの地を選んだのは、やはり旧奥州街道沿いにある「三誉の松」の周辺に公園を造ることで、当時枯死が心配されていた松の保存の道が開かれるというのが主な理由だったといいます。その意味では、「三誉の松」と旧奥州街道は、水原が造った公園の象徴的な場所だったのでしょう。
また、「絵図」には、旧奥州街道を歩く人が描かれています。水原は、この公園を訪れる人々に、公園で憩い英気を養ってもらうとともに、公園開設のために尽力してくれた人々をいつまでも記憶に留めてもらえるよう、意図的にこれらの石碑と石灯籠を配置したのではないでしょうか。そして、そこには後に水原衛作の顕彰碑、さらには公園創設の功労者である木村荘助の碑が建てられました。
そうです、合浦公園の旧奥州街道沿いには、公園の草創期の歴史が刻まれているのです。公園を散歩の時にでも、これらの石碑をながめ、そしてそっと触れてみてはいかがでしょうか。
関連リンク
問合せ
より良いウェブサイトにするために皆さんのご意見をお聞かせください。
Copyright © Aomori City All Rights Resereved.