ホーム > 文化・スポーツ・観光 > 歴史 > メールマガジン「あおもり歴史トリビア」 > 「あおもり歴史トリビア」第102号(2014年4月11日配信)
ここから本文です。
更新日:2015年7月1日
こんにちは。嘱託員の鈴木です。
いよいよ新年度ですね。編さん室も今月から少しコンパクトになりましたが、これからも日々の業務の中で見つけたトリビアな話題をお届けしたいと思います。
皆さんは青い森公園の中にある男の子と女の子の像をご存知ですか?この像は、青森市出身の画家で彫刻家である鈴木正治(すずき まさはる)さん(1919-2008)の作品です。この可愛い子どもの像がなぜここにあるかというと、かつてこの一画に新町尋常小学校があり、鈴木正治さんもその学校に入学したからです。
鈴木正治さんの作品(青い森公園)
明治6年(1873)、県下にさきがけて正覚寺を仮校舎に青森小学が開校し、翌7年に新町57番地の新校舎(現在の青森地方裁判所附近、長島1丁目)に移転しました。明治19年には現在の県営駐車場付近に、東北一といわれる校舎が竣工し、同年、青森尋常小学校と改称、明治25年には青森新町尋常小学校となりました。明治34年には青森女小学校(明治8年に青森小学に設置)が独立し、新町女子尋常小学校となって同じ校舎内にありました。
その後、明治41年10月に長島に校舎を新築して男子のみが移り、翌42年4月に長島尋常小学校と改称、新町女子尋常小学校は新町尋常小学校となります(大正2年から男子も入学)。この新町の校舎は、明治43年5月3日の青森大火で惜しくも焼失してしまい、一時は長島尋常小学校で二部授業を行っていましたが、青い森公園の場所にあった青森県立青森中学校が明治45年に浪打の新校舎に移転したため、その校舎に移りました。
新町尋常小学校は、昭和6年(1931)当時の在学児童数が1916人というかなり大規模な小学校でしたが、昭和16年に新町国民学校と改称、昭和20年7月28日の青森空襲により校舎は焼失してしまいます。児童は古川国民学校に収容されましたが、その後、新町国民小学校は復興には至らず、昭和21年に長島国民学校に併合されました。
新町小学校(『青森市史』第一巻 教育編より)
戦後は、焼失した小学校および新しい学制の実施による新制中学校の校舎の建設が必要となりました。市民からは新町小学校復興の要望もありましたが、敷地の問題で戦災前の場所に建築することができなかったそうです。
その後、古川中学校が現在地に建築される際、建築現場に「新町小学校建築」と標示されていたという話や、昭和24年5月20日の銘のある新町小学校建築の棟札が古川中学校に保存されていたということから、緊急に必要であった新制中学校校舎が小学校再建より優先されたのかもしれません。
|
|
「青森市立新町小学校々舎新築」と書かれた棟札(市史編さん室蔵)
青い森公園の像の男の子の学帽の徽章は「新」、背面には「思い出の像 1873~1945 新町小学校ここにありき」と刻まれています。(この像の基となる彫刻が、4月13日(日曜日)まで開催の青森県立郷土館「新収蔵展―ふるさとからの贈り物」で展示されています。)
|
|
※今回のトリビアは、『新青森市史』別編教育(1)、(2)、(別巻)を参考にしました。
問合せ
より良いウェブサイトにするために皆さんのご意見をお聞かせください。
Copyright © Aomori City All Rights Resereved.