なみおか今・昔115

町史かわら版(22)

〜第3巻(近世の浪岡)3月発刊!〜

 町史編さん事業も残り3か月となりました。ここで3月に刊行予定の第3巻をご紹介します。
 「近世の浪岡」と題した第3巻は、弘前藩が成立するころから明治維新まで、江戸時代全般をまとめた内容となっています。
 執筆者の中には、町史の原稿を完成させた後に逝去した七尾美彦氏(元黒石高等学校教諭)や歴史の生き字引であった葛西善一氏の原稿も入れ、県立郷土館学芸主幹・瀧本壽史氏の編集のもと、中野渡一耕氏(県広報公聴室総括主査)等によって執筆がなされました。
 浪岡の村の原型は北畠氏の時代に成立しますが、きちんとした形になるのは江戸時代の初めです。当時の村の様子をあらわした、貞享検地の状況や天和の絵図 (1684年ころ)によって各村々を紹介し、街道に添って並ぶ村々を国文学研究資料館(東京)にある「御道国中道程之図」を使いながら解説します。ここでは、浪岡の地域が街道とともにあった「宿駅」としての性格を強調しています。
 江戸時代の産業として、町場では酒造業や醸造業、村域では農業と林業そして殖産的性格の強い漆生産、馬産、製紙、養蚕も示されます。特に、浪岡は山野の多いところですから、マタギの活動もあり、藩主が鷹狩をするための「御鳥屋とや」を吉内・本郷・下十川(大沼袋)村に設置するなど、自然との関わりを述べています。それとともに山林を管理する村にとっては、隣村との境界が重要問題で、明治以降まで続く「浪岡山」などの入会地紛争なども記述します。
江戸時代の村を表す天和の絵図
江戸時代の村を表す天和の絵図
(四日町村:現在の北中野地区)
 やがて津軽一円に餓死者を出した天明の飢饉などによって、藩政も変動がみられ、人口や屋敷地が縮小する様子を「細野雪田家」の絵図や飢饉供養塔をもとに解説し、幕末にいたる藩政崩壊のあらましを述べることとなります。
 また、江戸時代における教育・寺社の動き・文化活動をはじめ、浪岡を訪れた菅江真澄などの紀行家たちの活動も詳述し、最後に農民に対する法律的な統制や、農村の1年を五本松で作製された農書「案山子かかし物語」から解説します。
 最後に、これまで原文史料を見ることがなかった「文献史料」を巻末に載せ、読者の参考に供しています。
 現在、編集の最終校正をしており、3月までには町民の皆様にお届けできると思います。

『広報なみおか』平成17年(2005)1月1日号に掲載


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