なみおか今・昔102

町史かわら版(9)

〜平井信作と牧良介〜

 私は普段劇作家というものをやっていて、勉強部屋もとっ散らかっているし、アタマの中身も日々の原稿書きでとても正常とは言えない状態が常態である。
 ものを「言葉」や「カタチ」で表現するというのは大変なことだ。なにしろ色んなアイディアや言いたくてしょうがないことを、原稿用紙やキャンバスに定着しなければならないからだ。
 阿部合成、平井信作、常田健。この3つの名前は浪岡町にとって誇りである。と、同時に私にとってはいつでも気になる存在である。
 物故したこれらの作家が何故、気になるのか。それは今でも彼らの表現したものに、直接的に私たちの生活に働きかける「問い」があるからなのだ。
 勤め先を町外に持つ私にとって、自転車に乗って町内を周遊することは極めてまれである。しかし、それでも1か月に1度くらいは自転車に乗ることもあるのだ。
 散髪の日がその日で、大体において散髪の日というのは晴れることになっていて(天気が悪いとまずそんな気にはなれない)、前日のお酒を抜きつつ町立病院の近くから茶屋町方面まで私は自転車の人になる。
平井信作氏と石坂洋次郎氏
平井信作(右)と石坂洋次郎(平井信作追悼展から)
 浪岡川の土手を走り、玄徳寺を右に折れてS字カーブを抜け目的の散髪屋さんへ行く。散髪屋の主人はひとつ下の後輩で、もう何十年も通っているので余計な説明はいらない。座って、とりとめのない話をし、さっぱりして、また帰路に着くのである。
 さて、津軽病院のすぐそばに平井信作の家はあった。現在でもあるが、中学生のころ、将来は何かものを書いて生活しようと考えていた私にとって、平井信作という名前は特別だった。したがって、茶屋町から津軽病院へ抜けるその通りの約50mは妙に緊張する通りだったのだ。
「平井信作商店」というフルネームを登録商標とするのは、津軽人のメンタリティーであるが、それにしても「直木賞候補作家」というもうひとつの肩書きは、なんときらびやかであったことか。
 「おまえ、平井さんがずっと昔、東奥日報にオレ達の劇評書いてくれたの知ってるか?」
私にそう話してくれたのが今は亡き牧良介さん。私は大学生になっていて、青森の「だびょん劇場」に通いつめていたころの話だ。誰でも若くて無茶をやる時代というものがあるようで、牧さんらがはじめた「劇団雪の会」の破天荒な芝居を、平井信作はやわらかく批判し、激烈に励ましていた。
 その懐の深さには驚かざるを得ない。表現者はその業としていつでもほかの才能に対する嫉妬心を持つが、平井はその劇評で見事に自身の嫉妬心を押さえている。
 さて、話は少し横道にそれる。牧良介は青年時代公務員であった。平井信作商店から青森方向に玄徳寺をめざし、寺を少し過ぎた右側にかつて法務局があった。彼はそこで公務員の俸給で生活しながら芝居をしていた。
 そのころ、多分昭和の40年代初め、私は小学校の低学年。平井信作という名も牧良介という名も知らない。将来は立派な大人になりたいと思っていたので、芝居や小説の世界は文字通り別世界であった。
 これから、平井信作の小説や小話に疲れたら積極的に自転車の人になろうと思う。浪岡川をわずかに遡行するのだ。自宅からわずか3分の所に、かつて2人の偉大な芸術家が、それぞれを知らずに毎日を暮らしていたのだ。
 大事なことはロラン・バルトのいう「ゼロ時点」(いま・ここ・私を歴史の到達点とは考えずに、常に作品の初源にその作品の構造を見ようとすること)に立ち止まること。川の流れでも見ながら日本中がまだ貧乏だった昭和40年前後に思いを馳せてみよう。

【町史執筆委員 長谷川孝治】

『広報なみおか』平成15年(2003)12月1日号に掲載


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