なみおか今・昔99

町史かわら版(6)

〜箱館戦争青森口総督 清水谷公考しみずだにきんなる

 浪岡茶屋町の浄土真宗の寺、玄徳寺の門前に「戊辰ぼしん戦乱 清水谷御転陣地」という石碑が建っている。昭和17年に前田喜一郎建立である。
 清水谷とは明治元年・2年(1868・69)の戊辰戦争の際に箱館府知事だった正四位下・侍従清水谷公考である。公考は弘化2年(1845)9月6日堂上公家とうしょうくげ羽林家うりんけの清水谷家21代ごん中納言公正きんなお六男として生まれた。幼少比叡山で仏弟子となったが、10歳の年に兄の死によって還俗げんぞく・生家を継ぐことになった。
青森口総督清水谷公考卿
青森口総督清水谷公考卿
(明治2年 北海道立文書館蔵)
 公考16歳の文久元年(1861)に草莽そうもうの者が学習院にいたって時事を論ずることが許され、その顔ぶれの中に桂小五郎、高杉晋作ら勤王の志士があった。とくに決定的なのは憂国の探検家岡本文平との出会いである。
 岡本は京都の儒者池内大学の塾で代講をしていたが、池内が安政の大獄のあと斬殺されたので江戸に出、間宮林蔵の北方探検に感動し、自らもカラフトに赴き、それまで誰ひとり陸行調査したことのないカラフト全島を一周、調査した。ここで彼がみたのはロシアの武力侵略と幕府の無策だった。慶応3年(1867)岡本は清水谷邸に食客として寄寓した。
 岡本は北方の危機を公考卿に説いた。公考卿は政府筋に蝦夷地鎮撫使派遣を建言、さらに七箇条の蝦夷地開拓の方法を太政官に提出した。かくて蝦夷地を支配する箱館裁判所が設置され、明治元年閏4月5日公考は総督となり、同24日箱館府知事となった。
明治5年 ベルリンの日本貴族たち
明治5年 ベルリンの日本貴族たち
上段左から2人目 清水谷公考
4人目 鷹司熙通
下段右 北白川宮能久親王
(東京都杉並区 清水谷忠重氏蔵)
 しかし同年10月19日榎本武揚の艦隊が噴火湾鷲ノ木に襲来、箱館府側は防戦したが敗れ、10月25日府知事は青森へ後退、11月1日浪岡へ転陣、玄徳寺に宿した。人員は府員及び随者85人、箱館府兵30人、弘前藩兵一小隊で、清水谷は箱館を死守せざるを恥じ、政府に待罪書を出して軍事本営たる青森を避け浪岡に謹慎したのだった。だが朝廷は公考を罰せず、青森口総督に任命した。
 公考の箱館脱出はプロシア船を利用し容易だったが松前志摩守の場合は悲惨だった。松前城、館新城が相次いで落城し、11月19日地元の舟で海上に脱出するも真冬の荒天に2日翻弄され、2歳の鋭子姫は舟中にて死亡、21日平館に着岸するも藩主志摩守も弘前にて間もなく病死した。この時志摩守の妹邦子姫も5歳で乗船していたが、後に公考と結ばれる。
清水谷総督の本営だった玄徳寺
清水谷総督の本営だった玄徳寺
(昭和初年 玄徳寺蔵)
 公考は軍功により政府から永世高250石を与えられたが返納を願い出た。だが天皇はそれに及ばずとした。もっともプロシア商人に七重村の土地を貸した件では始末書をとられた。そのため国際法の知識不足を悟り、明治2年9月開拓使次官という最高官位を捨てて大阪洋学校に入り、さらに明治4年岩倉具視大使一行の洋行に加わり、ロシアに留学した。しかし病のため明治8年帰国、邦子姫との結婚生活も全うせず、15年12月31日38歳で没した。17年華族令により清水谷家は伯爵に叙せられた。

【町史編集委員 稲葉克夫】

『広報なみおか』平成15年(2003)9月1日号に掲載


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