なみおか今・昔97

町史かわら版(4)

〜江戸時代の旅の諸相・伊勢講いせこう女人にょにんの旅〜

 現在編さん中の『浪岡町史』第3巻では、「交通と流通」という章を設けて、江戸時代の羽州街道を行き交った人や物の流れと浪岡との関わりを探っていきます。この中から、浪岡の人々の「旅」に関するトピックスを紹介しましょう。
 様々な移動に関する規制があった庶民にとって、伊勢参りや金比羅こんぴら参りなどの西国参詣は、旅行の名目としてもっともポピュラーなものでした。もちろん比較的富裕な層以外は誰でも行けるわけではありませんでしたが、何人かで旅費を積み立てて交代で詣でる「こう」もありました。現浪岡町域では正徳3年(1713)3月11日の「弘前藩庁日記(御国日記)」(以下、「国日記」と略す)に、中野村の庄屋権左衛門が弘前新町の名主今泉伝兵衛と「惣名代」として伊勢へ行ったという記事が見えます。この記事には「例年の如く」と書かれているので、継続的に講を組んで伊勢に行っている様子が窺えます。
伊勢神宮へ向かう人びと(東海道風景図絵)
伊勢神宮へ向かう人びと(『東海道風景図絵』)
(『日本歴史探検-3 近世に生きる』(1988年)
国立歴史民俗博物館発行から転載)
往来手形の例
往来手形の例 安政2年(1855)2月
(玄徳寺蔵)
 一方、藩は女人の伊勢参りを陸路はもちろん、危険が少ない海路でも禁じていましたが(「国日記」宝永2年閏4月9日条など)、実際は「国日記」にも女性の旅はしばしば見られます。例えば、享保19年(1734)4月12日には目鹿沢村の太田伝兵衛が妻(53歳)らの伊勢参宮を藩に願い出て許可されています。メンバーは妻のほか娘2名(25歳と22歳)、下女(48歳)、下男(52歳)であり、女性主体の構成でした。また、同15日には浪岡村の喜三郎の妻(49歳)も、息子(19歳)とともに伊勢参宮を許可されています。これらはみな北国ほっこく筋を通った陸路の旅でした。
 以上の例はいずれも男性の同行者がいますが、正徳元年(1711)5月28日条に浪岡八幡宮有馬伊豆の妻(51歳)が伊勢参宮のため寺社奉行に願いを出し、許可されている記事が見えます。単なる旅行ではなく正式な代参だいさんですが、藩からの往来手形おうらいてがたによると「女一人」となっており、これが事実なら珍しい女性の一人旅ということになります。もっとも、実際には下男などの同行者があったかもしれません。
 江戸後期に伊勢参宮のガイドとして作られた「伊勢参宮名所図絵」を見ても、女性の参詣者が数多く描かれています。もちろん現在のように若い女性が一人旅をするようなものではなく、比較的裕福な層の、子育ても一段落した40〜50代の女性が多いことが指摘されていますが(旅の文化研究所編『絵図に見る伊勢参り』河出書房新社 2002年)、浪岡町の事例はまさにそれに該当します。ただし、太田伝兵衛妻のように成人した娘を伴った母子旅行もあったのです。

【町史執筆委員 中野渡一耕】

『広報なみおか』平成15年(2003)7月1日号に掲載


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