なみおか今・昔93

なみおか町史コラム(23)

〜浪岡におけるキリスト教の伝道(1)〜

 浪岡におけるキリスト教伝道の最初は、明治22年(1889)1月の中ごろであることが当時の新聞記事によって知られる。1月18日付の『東奥日報』によると、基督教キリストきょう演説会が浪岡村で開催され、演者として平野栄太郎が「日本の振はざる所以ゆえん」について語ったが、聴衆はあまり感動しなかったと述べられている。
写真1-キリスト教の記念碑(表)
(写真1)キリスト教の記念碑(表)
写真2-キリスト教の記念碑(裏)
(写真2)キリスト教の記念碑(裏)
 明治24年9月19日付の『東奥日報』によると、東京英和学校長本多ほんだ庸一よういつが浪岡耶蘇教やそきょう講義所にて「耶蘇教と日本人」の題で演説、その内容は極めて簡明で、基督教は空気の新陳代謝のようなもので、人間の精神の空虚を充塡するものであると述べ、多くの人達に感動を与えたようであった。
 明治27年に、平野栄太郎が藤崎教会牧師に就任、藤崎・浪岡地域におけるキリスト教の伝道活動が本格的に始まったようである。
 平野栄太郎牧師は、茶屋町にある旧家の出身で、明治3年4月28日生まれ、父平野兵五郎、母おみの長男であった。平野家の屋号は「ヒラハン」と呼ばれ、旅館業を営んで極めて恵まれた家庭であった。プリマス・ブレスレン派に所属した独創的信仰と反骨精神旺盛な人物のようである。
 その後、藤崎教会から千葉県にあるキリスト教会に移り、さらに岩手県盛岡市内の教会に移って活動して昭和21年(1946)6月1日、盛岡教会の自宅にて召天されました。
 「ヒラハン」の家に残されている貴重な聖書は、明治29年大日本聖書館発行、日本横浜印行出版、耶蘇1894年『引照舊新約全書』である。当時の漢文体と文語体のミックスした独得な文章で書かれた珍品である。
 昭和初期の不況と戦争を背景にした暗い世相の中にあって、世の光りを求めて熱心なクリスチャン山内勘三郎の活動が知られている。現在茶屋町にある「ヤマカン呉服店」の裏庭に立派な記念の石碑(写真1・2)が建てられている。石碑の裏面に、マタイ第5章8節と10節の聖書の言葉が彫られている。戦前の浪岡におけるキリスト教活動は、多くの信者によって引き継がれ精神的支柱となったようであります。

【町史執筆委員 平野藤男】

『広報なみおか』平成15年(2003)3月1日号に掲載


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