なみおか今・昔83

なみおか町史コラム(13)

〜口語短歌の実践者・竹村 章〜

 花岡公園に何基かの石碑がある。歌碑は竹村章たけむら あきらの碑である。
 本名竹浪昌四郎。たった4年間の女ヶ沢(女鹿沢)小学校の代用教員生活から、第一歌集『花岡村』(昭和17年<1942>4月1日刊)はその題名と歌の命を与えられた。大正2年(1913)9月5日板柳町生まれ。父は竹浪家の二男であったため、後に藤崎町に分家する。
 旧制弘中卒業後上京。昭和7年鳴海要吉(浦春)の口語歌(口語短歌のこと)運動に共鳴し、加わる。仲間らと歌誌「鳴子」を出す。要吉主宰の「新緑」(のちに「短歌文学」)に作品を発表。昭和10年から川崎陸奥男主宰の「出帆旗」に発表。これらに発表された歌から第一歌集『花岡村』は生まれる。
 奈良時代からの伝統文芸である和歌は、正岡子規の革新運動を経て、明治以降の言文一致の影響を受ける。定型であっても口語はその表現ゆえに感動、情景が伝わりやすく、親近感や共感を得られやすい。日常使用している言葉で表現することはそれだけ対象の間口も広がりストレートに迫れる。
 要吉は思想弾圧を受けて職を失っている。実は、竹村も警察の弾圧を受けている。時代が時代だけに竹浪一族の間では竹村は「困った」存在であった。しかし、『花岡村』は児童、底辺の人びと、虫といった小さなものや弱い立場の者を素直に詠み、口語体が生きている。石川啄木の歌の平明さ、親しみやすさにも通じるものがある。対象が自然・事象・人間いずれでも間に不要なものを介在させず素直な詠みぶりは竹村の持ち味、温かい人柄をうかがわせる。「弁当のない子」「子守りの子」「長欠の子」等の児童の姿から戦時下の様子が伝わる。
 昭和14年眼疾のための帰郷。ただブラブラしていてはいけないというので、竹村の父が常田健の父に頼んで代用教員の職を得る(常田健も代用教員となるがすぐ辞める)。合わせて10年にも満たないが、竹村は朝陽、林崎、藤崎、女ヶ沢小学校に勤める。縁の深さは時間の長さではない。女ヶ沢小の4年間の生活がこの『花岡村』に結実する。
 戦時中の弾圧で歌づくりを中断したものの、昭和31年「風車」を編集発行する。
「花岡村」と「静かな村」表紙の写真
 口語短歌は表現が平明であっても当然芸術性、詩性が要求される。形だけ目新しくとも「うた」としての品格がないと他を圧して1つの地位は確立できないであろう。要吉とともに竹村自身も口語歌運動を実践しながらその詩性追究に励んだ1人といえる。青森県の新短歌壇の先駆的存在であった。
 失明の危機を乗り越えて昭和54年(1979)に歌集『静かな村』出版。交友のあった平井信作が序を寄せ、画家常田健が絵を担当している。
 代用教員の後、工務店を経営。60代半ば脳血栓で倒れる。平成10年(1998)5月5日没。享年84才。なお本人の希望で蔵書等の資料は、弘前市立図書館に寄贈。現在同館で資料整理中。
 歌碑は花岡公園グランド東側に建っている。

【町史執筆委員 鳴海弘子】

『広報なみおか』平成14年(2002)5月1日号に掲載


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