なみおか今・昔78

なみおか町史コラム(8)

〜終戦直後の浪岡本町〜

 約50年前の戦争終了直後の日本は混乱を極めていた。わが浪岡町も物資不足・物価高・食糧難にあえいでいた。アメリカ占領軍の日本再建の占領政策としての三大改革、政治・農地・学制改革が着々と進められていた。都市からの疎開者の帰還、外地からの軍人、一般人の引揚者がぞくぞくと故郷へ帰って来ていたが、海外で亡くなった人々も数多くあった。
 各市町村の財政難にもかかわらず学制改革が強行され、義務教育が六三制となり、新制中学校が、各町村にも設置された。ほとんどの町村では小学校に併置された。校長も兼任となり間借りして出発した。教師も施設・設備も不足したままだった。教科書さえ準備出来ていなかった。衣服も整っていなかった。
昭和22年頃の浪岡本町略図
 本町でも、国民学校から小学校と名を変えた教室4室を借りて、五所川原高女から来られた専任初代校長として神田袋穏氏が来られた。軍国主義・全体主義から、個人尊重主義へ変わるのだと朝会の度に強調された。修学旅行も初めての男鹿半島に、食べる米を持参して、軍隊払下げのリュックに入れ、列車を乗り継いで旅をした。学級の全員は参加出来ず、少人数の淋しいものだった。遠足は梵珠山の頂上まで歩きどおしで、弁当はアメリカ援助のトウモロコシの粉や小麦粉が米と半々に混入された、まぜごはんだった。
 占領軍の持って来たDDTのおかげでシラミやノミは徐々にいなくなりつつあった。
 昭和22年の春先に、仲町で火事が発生し、60棟を焼失する大火があった。通信手段も不完全なため、山合いの人達は翌朝まで知らなかった。鰊を満載したトラックのタイヤが燃えて動けなくなったままだった。
 町で近くの中学生を集めて「ベルリンオリンピック」という映画を観せた。それに「競歩」で出場した奈良岡良二氏(下十川出身・後に浪岡高校長)の講演を聞けた。マラソンでは優勝の日本代表の映像に感動した。映画に飢えていた時だった。
 町長の成田良策氏(砲兵中尉)は、公職追放のため退職し平野良助氏に替った。
 同22年夏、昭和天皇が浪岡小学校に立ち寄られ、校庭での藁工品競技会、校舎内では、児童の歌、踊りを御覧になられた。
 茶屋町・仲町・下町を通るジグザグ国道をアメリカ占領軍のジープや十輪トラックが、猛スピードで、土ほこりをあげて走って行った。街々では並木路子の「リンゴの唄」、淡谷のり子の「夜のプラットホーム」がはやって、人々の心を和ませた。

【町史執筆委員 北畠昭智】

『広報なみおか』平成13年(2001)12月1日号に掲載


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