なみおか今・昔73

なみおか町史コラム(3)

〜歴史にロマンを求めて〜

 町史の資料収集で町内各地を訪れ、長い間片隅に眠っている資料たちと出会う瞬間、現在から過去へと時が逆戻りし、歴史の中へどんどん引き込まれていく。それが、自分にとって初見の資料だと、その興奮も計り知れないものである。町史では、幕末から明治初期を担当している関係上、これまで出会ったいくつかの資料の中から、幕末期の資料を紹介します。
蝦夷闔境輿地全圖
蝦夷闔境輿地全圖
 かつて、茶屋町にある玄徳寺を訪れた時のこと、庫裏に保管されている多くの資料の中で2つの興味ある資料が目に留まった。1つは、「蝦夷闔境輿地全圖」、他は文化2年(1805)に書かれた「玄徳寺見取図」である。なぜこの2つの資料に興味を持ったかというと、ここ玄徳寺は幕末期の戊辰戦争ゆかりの地とでもいえる場所だからである。
 戊辰戦争最後の決戦である箱館戦争で、官軍の大将青森口総督清水谷公考が一時箱館から難を逃れて青森へ脱出、そして、さらにここ浪岡玄徳寺へ陣を遷してきたのは、明治元年(1868)11月1日のこと。当地には約2週間滞在するが、その確かな証は見つかっていない。しかし、前者の地図が発見されたことで、少しロマンを膨らませてみた。
 幕末期において北地への関心が著しく高まった結果、蝦夷地図が流行する。玄徳寺蔵のこの地図は、嘉永7年(1854)4月に江戸書物問屋播磨屋勝五郎によって刊行されたもので、木版色刷りの縦118cm横98cmの大図である。地名も詳細であり、実用蝦夷地図の完成版ともいうべき地図である。
玄徳寺の旧見取図
玄徳寺の旧見取図
特に、松前や箱館、青森が詳しく里程と共に描かれており、箱館から一時退却した官軍一行が軍議の時に見ていたものではないかと推察できる。
 また、歴史上有名な新撰組の土方歳三や榎本武揚などを五稜郭で攻略する作戦を、この地図を見ながら立てたと思えば、ロマンはますます大きく膨らんでくる。さらに、玄徳寺の旧見取図を見ながら、清水谷公考一行85人や箱館府兵30人は、何処にいたのか想像するだけで歴史の虜になっていく。
 吉内地区を訪れた時は、このころの農民の様子を記した、一農兵隊員の記録である成田良治氏所蔵の「碇ヶ関口出張日記」を拝見することができたし、浪岡八幡宮では、土佐藩発行の藩札が多数見つかった。沢地区では、箱館戦争へ出兵した地元の兵士が身に付けていた甲冑が存在した話しも聞けた。まだまだ、各地にこのような資料が眠っていると思われるがその資料を発掘して、歴史の表舞台へと登場させていくのが、われわれの使命と思っています。

【町史執筆委員 赤平智尚】

『広報なみおか』平成13年(2001)7月1日号に掲載


前のページへ なみおか今・昔インデックスへ 次のページへ