なみおか今・昔69

弘前藩庁日記に浪岡を読む(14)




 享保14年(1729)3月30日付の「弘前藩庁日記」には、次のような内容の記事があります。

「弘前藩庁日記」享保14年3月30日条
「弘前藩庁日記」享保14年3月30日条
  一 浪岡組代官が申し立てた。
    鰐口壱つただし直径八寸程
    玉伏湊如来堂
    正和五年丙辰八月十五日
    願主 弥六藤原景光

 このような文字があった。
 この鰐口は中野村諸辺寺川之内萑倉という所から、今月24日に同村の百姓弥五左衛門という者の子どもが拾ってきた旨申し出た。
 このことについて、中野村の百姓共を詮議し、古い時代のことを尋ねたところ、いずれも昔のことは分からないと答えたので、(このことを)宇左衛門に連絡した。

 文中の浪岡組は浪岡を中心とした行政区域です。中野村はその中の1つで、明冶になってから黒石市域の紅葉の名所中野村と区別するため、北中野村になりました。
 諸辺寺川は細野・相沢地域をうるほし、源常の大銀杏の横を流れ、浪岡城の下で浪岡川と合流する川−現在の地図には正平津(しょうへいづ)川と書かれています。もっとも昭和30年頃までは正平寺川でした。どうして変わったのでしょうか。
深浦円覚寺の鰐口
深浦円覚寺の鰐口
 発見された場所萑倉、これは雀倉だと思います。天和4年(1684)の絵図には「すゞめくら」という地名が源常付近に記されています。
 正和5年は西暦1316年、今から685年前に、鰐口は玉伏湊の如来堂に藤原景光が奉納したのです。
 その後どれくらいたってからでしょうか、玉伏湊の如来堂からこの鰐ロは津軽の浪岡に運ばれたと推測されます。おそらく、如来堂の関係者が、戦争に敗れ古里を捨てて浪岡に来たと考えてよいでしょう。身近なところで、浪岡御所北畠氏の祖先か、その関係者の浪岡入りが頭に浮かびます。
 玉伏湊の所在地や藤原景光という人物、お気付きの方、教えて下さい。地名が変わり史料もないため研究は難行しています。ともあれ源常平付近は宗教的な面から重要だったのです。 

【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】

『広報なみおか』平成13年(2001)3月1日号に掲載


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