なみおか今・昔68

弘前藩庁日記に浪岡を読む(13)

 江戸時代、大名には参勤交代の義務がありました。妻子を江戸に住まわせ、1年は藩の政治を、翌年1年間は江戸に行き将軍のもとで定められた仕事をするのです。関東地方の大名は半年ごと、対馬の宗氏、松前氏は特別な扱いでした。大名の負担は大きく、幕府に反抗することができなかったのです。
松前城
松前城
 江戸へ行く時の道筋も決められていました。弘前藩の場合、秋田・山形・小坂峠(福島県)を通り桑折から奥州街道に入り、江戸まで20日余りの旅、黒石藩も同様です。松前藩主は平舘に上陸し、(帰路は三厩から乗船)青森・仙台・桑折を通っていました。浪岡を定期的に通行する大名はなかったのです。
 しかし、「弘前藩庁日記」を読んでゆくと、1度だけ松前藩の帰国の行列が通っていたのです。安政6年(1859)3月22日の条に、次のような内容の記事がありました。


「弘前藩庁日記」(安政6年(1859年)3月22日条)
「弘前藩庁日記」(安政6年3月22日条)
  一 郡奉行が申し出た。このたび松前伊
    豆守様が帰国される。碇ヶ関口より
    (津軽領内)を通行される。油川に
    宿泊されるところだが、宿を勤める
    格式のある家がない。青森は前々か
    ら御本陣となる家があり泊まってお
    られた。よって浪岡から(鶴ヶ坂を
    通らずに)大豆坂を通り青森に止宿
    されることになった。(以下略)

 このほか弘前藩庁には、今回に限り「小坂越え出羽通り」を通行するのでよろしく、という連絡が来ています。
 弘前では前例がないので大騒ぎになりました。宿泊先のあっせんだけでなく、馬70頭の手配、橋の修理に道路の掃除、村々には火の用心から、玄関の下足が見苦しくないようにと指示しています。増館から女鹿沢、五本松、王余魚沢など、沿道の村に細かな命令が飛びました。浪岡組の役人は高陣場の休息所をどうするか、藩庁に指示を求めています。役人も大変です。
 松前藩主は予告通り4月1日弘前に泊り、翌日は青森へ、浪岡は昼食です。193人分の給食は村人にとって大変でした。4月4日に松前藩主はようやく三厩に到着しました。
 それから半月、4月18日の「弘前藩庁日記」は、順風があり渡海されたと記しています。「ヤマセ」でないと渡れないのです。江戸出発は3月11日、長い長い旅、お殿様も大変でした。

【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】

『広報なみおか』平成13年(2001)2月1日号に掲載


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