なみおか今・昔61

弘前藩庁日記に浪岡を読む(6)


 明和3年(1766)正月28日、津軽地方に“大変”が起きたと「弘前藩庁日記」は記しています。この日は快晴、そしてそのあとに次のような記述が続くのです。



弘前藩庁日記記事(1766年)
左 2月6日条・右 正月28日条
  酉刻(午後5〜7時)過ぎに大地震
  が発生した。はじめ非常に強くゆ
  れ、その後小さな地震が数度あっ
  た。弘前ならびに在浦ともに数件
  の家が潰れけが人が出た。
  (中略)郡内のあちこちで地割れ
  があった。

 暦の上では春ですが、まだまだ寒さの厳しい時節です。暗くなってからの大地震、人々の不安は察するにあまりあるところです。
 浪岡地区の被害は正月30日の条で「御蔵が破損し米俵が崩れた」と述べており、藩では足軽3人を派遣して番にあたらせています。まずは御殿様の事が最優先です。農民に関する事柄は、2月6日の項に神半蔵(役人)の報告があります。


  一 (前略)浪岡村では小百姓、高無(耕地を持っていない農民)二十七八軒
    が飢えていると聞いた。御蔵奉行に赤米(赤味をおびた下等の古米)三俵
    を渡すように申し入れた。これで一両日は米を給することができよう。

 2月14日条にはこんな記事が見えています。「種もみが焼けてしまったので、藩からお借りしたい」。浪岡地域民からのこんな願いに対し、「御蔵には種もみがないので、近郷にあるものを繰りかえて貸す。1反につき9升貸与するから、年末には2割の利息をつけて返すように」。
利息の2割は高率のように感じますが、秋には米が多くとれますから、暴利という程ではありません。非常の際ですから、現在なら無利息になるのではないでしょうか。
 雪が解けてからも“大変”は続きました。5月23日の条には「地震で用水堰が切れ、田に水が流れないから畑作をしたい」という浪岡村惣右衛門の申し出が見えています。面積は1町23歩(約1ha)ですから、耕作者は、“大変”でした。
 さて五本松の加茂神社では、「御郡内御無難の御祈祷をし御礼を差し上げたい」と藩庁に申し出ています。農民は神様に頼るほかなかったのです。その神様も“大変”でした。浪岡八幡宮の神官は潰れた社殿の再興に走りまわっています。
 「藩庁日記」には痛手を受けた農民の記事が少ないのです。しかし、農民は復興にむけて力強く立ち上っていました。

【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】

『広報なみおか』平成12年(2000)7月1日号に掲載


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