なみおか今・昔51

浪岡北畠氏の足跡(6)

〜北畠天童丸〜

 前回は北畠顕家の弟、北畠顕信の足跡をたどりました。彼の活動範囲は、福島県から山形県全域に広がっています。山形市の北に接する天童市には北畠神社があり、顕信ほか北畠一族を祀っています。
 この社のある地域は、観応2年(1351)の「阿谷(あこや)の陣」の古戦場なのです。現在は「あこや」がなまった「荒谷」という地名が残っています。付近には松尾芭蕉の句で有名な山寺・立石寺があります。南北朝時代、立石寺は南朝を支持しており、顕信はこの寺の勢力を背景に、北朝方と戦いました。もっとも、北畠神社の建立は近代のことで、南朝を正統とする皇国史観に基づいたものと考えられます。
 天童市の中心部まではこの社から10km、毎年「舞鶴公園」では、野外の将棋大会が開かれるので有名です。この公園のある山は「天童山」「舞鶴山」と呼ばれ、山上には北畠氏の拠点があったといわれています。一般に「天童古城」と呼ばれ、城主の北畠天童丸は北畠顕家の子孫という見方があります。前述の荒谷には、天童丸の居館と伝えられる「天童屋敷」「長者屋敷」がありました。現在館跡は破壊され残存していません。
天童市の「天童古城」
天童市の「天童古城」
鯵ヶ沢の「天童山」
鰺ヶ沢町の「天童山」(台形の山)
 天童古城や北畠神社は、天童−山寺間のバス路線上にあり、山寺・立石寺観光のついでに見学することができます。
 さて「天童山」は津軽地方にもあります。日本海に面した鰺ヶ沢町の中心部、寺院街の裏手にある丘が天童山、天童城なのです。そして、北畠天童丸が天童から海沿いに来たという説がありました。この城は江戸時代初期に津軽氏が使用しており、多くの遺構があったのですが、土取場となって姿を消したと、町の人は語ります。現在天童山の上部には、遠くからも目立つ常夜塔が造られ、公園化の工事が進んでいます。
 北畠氏の研究をする時、終戦までの史観により、史料に基づいた科学的な立証をせず、伝承や地名から強引に説明したものが多くみられ、注意する必要があるのです。(次回は伊勢国司家)

【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】

『広報なみおか』平成11年(1999)9月1日号に掲載


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