なみおか今・昔38

ふるさとの写真を読む(7)


〜天狗平と長慶天皇伝説〜

 今回読む写真は昭和10年(1935)ころの、天狗平(てんぐたい)の遠望と山頂の墳墓です。天狗平(北中野)は、源常(げんじょう)の大銀杏の東方にある高地です。そこには98代長慶(ちょうけい)天皇(南朝第3代)の御陵墓説がありました。長慶天皇は浪岡北畠氏の祖、北畠親房を重く用いた後醍瑚天皇の孫にあたります。しかし長慶天皇の存在は謎につつまれ、江戸時代から問題になっていました。
天狗平山と御陵墓比定遺構
天狗平山(上)と御陵墓比定遺構(下)
「長慶天皇波岡山山陵御事蹟の儀に付上申」所載
 大正15年(昭和元=1926)八代国治博士が『長慶天皇御即位の研究』を発表して、天皇の存在が確認され「皇統譜」に書き加えられました。在位の期間は1368年から15年程です。北朝と戦い続けることを主張した長慶天皇は、和平を唱える南朝の要人と対立し、位を弟の後亀山天皇に譲られました。退位の後、天皇の消息は分からなくなってしまいました。
 天皇の在位が確認されると“長慶天皇ブーム”が広がりました。天皇の御陵墓はどこか、皇国史観のもとで我が村こそ天皇が崩御された所、我が町にある墳墓こそ御陵であるという主張が相次いだのです。青森県でも南朝ゆかりの南部町や七戸町、相馬村に加えて浪岡町(旧五郷村)も立候補しました。
 浪岡地域は浪岡城のほか北畠氏に関連する遺跡が多くあり、長慶天皇と結びつけやすい土地柄です。加えて大正2年(1913)には、天狗平の山頂から貴人の墳墓と考えられる遺構や遺物が発見されました。
 長慶天皇御陵墓の史料的裏付は、「応仁武鑑」にある北畠系譜の長慶天皇浪岡崩御記事をはじめ、「長慶天皇御世譜」や「弘前教応寺文書」などを用い、天狗平の墳墓こそ長慶天皇の御陵墓と論じ、宮内庁に上申したのです。また五郷村や浪岡地方史跡名勝保存会は、御陵墓に関する図書を刊行してPRに努めました。
 しかし、使用した記録の多くは史料的価値が低く、遺構を天皇の御陵墓として裏付けることはできませんでした。そして昭和19年(1944)京都の嵯峨東陵が長慶天皇の御陵墓と決まり、終戦とともにこの問題は忘れ去られました。ただ天狗平に墳墓の遺構があることは事実で、浪岡地域の歴史を考える際、別の角度から研究する必要があると思います。

【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】

『広報なみおか』平成10年(1998)8月1日号に掲載


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