なみおか今・昔36

ふるさとの写真を読む(5)

 今回は、米軍が写した空中写真を読むことにしましょう。
 撮影は昭和23年(1948)5月21日、ちょうど半世紀前の浪岡の写真です。今75歳の方は25歳、50歳の方はこの年に生れました。戦争が終わり、ようやく一息ついたころの町並です。復員した人々の結婚式が行われ、大勢の赤ちゃんが生れました。進駐軍のジープが大釈迦(だいしゃか)峠を猛スピードで走った時代です。農村は米とリンゴで収入は増えていましたが、人々の生活はまだ厳しかったころです。
 写真は北が上、東側中央に川原町、その上に旧浪岡小学校が半分見えています。北側中央よりやや右に見える道路が国道ですが、まだ直線化されていません。浪岡川が東から西に流れており、浪岡橋の北岸の木立が玄徳寺(げんとくじ)、その前から東に進む道が旧大豆坂(まめさか)街道です。現在は河川改修のため、北側だけ家並があります。浪岡橋を渡った旧国道は東に折れ、さらに南に折れてしばらく行くと西に曲がります。このあたりが浪岡町の中央部で曲がり角に警察署がありました。また、少し食い違った形で川原町、北中野への道筋が分かれます。このあたりは道路の拡張や下水道工事で様子は変わりました。
昭和23年に米軍が撮影した空中写真
昭和23年に米軍が撮影した空中写真
 旧国道は西に進み、直角に曲がります。この部分は現在も7号として使用されています。旧国道は浪岡駅に向かい西に進み、少し行って南に曲がり、さらに3度折れて女鹿沢(めがさわ)の集落の直線部に続きます。画面の中央部にある四角形のリンゴ園は、江戸時代に弘前藩の御蔵(おくら)があったところです。それにしても曲がり角が多いこと、俗に「浪岡七曲がり」「浪岡八曲がり」といわれますが、江戸時代あるいはそれ以前の防御を考えた都市計画なのです。現在は浪岡の北から女鹿沢の南まで直線化されています。
 田圃の面積が狭いこと、また仲町付近の家並が崩れているのが読み取れます。今の役場や赤川団地はどの辺になるでしょうか。ともあれ戦後50年余、町民の町づくりの努力の痕跡がしのべます。

【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】

『広報なみおか』平成10年(1998)6月1日号に掲載


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