なみおか今・昔35

ふるさとの写真を読む(4)

 今回は松並木の写真を読むことにしましょう。左の写真は『ふるさとのあゆみ南津軽』に載せられている昭和10年(1935)の五本松付近の写真です。村内に続く並木道、松の間には萱葺の屋根が見え隠れしています。路面にはわだちが残り、自動車が頻繁に通る現在と違った、のどかな農村風景がうかがえます。しかし前年は大凶作で、村人の生活は苦しかったのです。
 並木について考えてみましょう。弘前藩は農村地帯の並木に柳を植えていました。その後、はんの木を植えたこともあります。そして文化年間(1804〜1818)からは松が一般的になりました。写真の並木は堂々とした枝ぶりで、文化年間以前の植栽と見ることができます。
 江戸時代の五本松村にもふれましょう。江戸幕府の終末期、文久元年(1861)に弘前藩主津軽承昭(つぐあきら)は領内視察をしています。外国船の接近に備えて海岸警備の状況を見回ったのです。その際の記録『御道割明細書』は五本松村の家数を45軒、男174人・女152人、馬57疋と記し、道筋に加茂明神、馬頭観音堂、羽黒宮、美人川などがあることを記しています。8月18日の昼食を浪岡村清助の家でとった殿様は、午後松並木の下を通りました。同じころに書かれた『津軽道中譚』は、五本松から王余魚沢にかけて松並木が続いていたことを記しています。殿様が見た松並木はこの写真より細かったことと思います。
五本松付近の松並木
五本松付近の松並木(『ふるさとのあゆみ南津軽』所載)
 大豆坂(まめさか)街道は明治時代に入ると、青森の歩兵第5連隊の手で整備されています。また大豆坂の急坂をさけ、入内峠を経由するようになりました。道筋では軍事訓練が行われています。昭和に入るころから、並木は少しずつ伐られてゆきました。昭和5年(1930)10月3日付『東奥日報』夕刊は、「老松を伐って道幅の拡張」という見出しのもとに、高田(青森市)付近の松を伐採した記事を載せています。そして太平洋戦争末期には松根油(しょうこんゆ)採取のため松並木は大量に伐採されました。現在玄徳寺前から青森堤橋までの旧道筋にはわずかですが、松は残っています。一度歩いて調べるのも楽しいと思います。なお、旧大豆坂街道の部分は危険です。1人で歩かないようにして下さい。

【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】

『広報なみおか』平成10年(1998)5月1日号に掲載


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